すか~れっと・どり~む

同人サークル「すか~れっと・はうす」のAsidが管理するブログ跡地です。
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無感動と非感動の違い

2009-12-08 01:02:03 | なんてことない日常
どうでもいいけど、舞い散る木の葉を見てたらそんなこと考えてた。
感動しない訳じゃないけど、あまり感動しないのがオレ。
感動出来ることなんて、年を取るにつれて減っていくのが普通とすると、子供の頃に感動的なことが多いと感動出来るモノが減るって考え方も出来るんでは。
1度見たモノには感動出来ない。
または感動出来たとしても、感動の度合いは少なくなるはず。
つまり人との出会いもそんなモノ。
初めて誰かと別れる時は得も知れぬ感動に襲われた気がする。
もう2度と会えない訳じゃないのに、2度と会えないような気がして何だか悲しくなてしまったような気がする。
でも今はもうそんな気はしない。
人との出会いなんてよくあることだし、一期一会なんて当たり前。
だからこそ、人との出会いに感動を覚えることなんてなくなったんじゃないかと。
人に対して誠意ある対応をするのは当たり前だけど、その人との大きな別れがあった所で会えなくなる訳じゃない。
もし将来自分の大切な人が亡くなったりした場合は、いくらオレでも泣くかもしれない。
しかし、これはあくまで仮定。
仮定は確実の行われることではなく、予測される1要因の中で最も起こりうる可能性が高いモノである。
その可能性に100%なんてことはあり得ない。
この世の中で100%があり得る現象は数えられるくらいしかない。
生き物はいずれ死ぬ、とか。
始まりがあれば終わりがある、とか。
いくつあるかは分からないけど、この仮定がそれに当てはまるなんてことはないと思う。
これも仮定になる訳で、可能性は100%ではないんだけど。

そんなこんなでオレは人の別れにそこまで興味がなかったりする。
門出を祝うことや、それに応じて何かを催すことは結構だと思う。
しかし、今は何故か乗り切れない所がある。
昔はこんなじゃなかったはずなのに。
何かお祭り事や騒げる場所があると、呼ばれてないのにそこに出向く癖はなくなってしまったのだろうか。
だとしたら奇特な癖を無くしてしまった。
この癖があると少しは人生が楽しかっただろうに。
何処かで馬鹿騒ぎをしていると、何故か冷めてしまうのが今のオレ。
単にノリが悪くなってしまったのだろうか。
それとも自分が面白そうなことにしか興味を無くしてしまったのだろうか。
そのどちらともである可能性もあり得るが。
ただ1つだけ分かることは、自分は全てが満たされていないと幸せを感じられない、という面倒な性格の持ち主だということ。
小さな幸せくらいならいくつでも、いつでも感じることが出来る。
しかし、最近は心の底から幸せだと思ったことがない。
正確には1度だけはそれに近いことがあったが。
しかし、何か、何処か欠けている。
遊んでいる間はそれなりに面白い。
しかし、それも一時の戯れ。
終わらしてしまえば何処か悲しくなってしまう。
そんな状態でも、無意識で面白いと感じたこと。
それは「何かを作っている時」だった。
正確にはゲームのシナリオを作っている時だが。
自分で物語を紡いでいくことがこんなに楽しかっただなんて。
行き着く先、通過するポイントは指定されている。
しかし、そこから自分らしさをどう加えていくか。
そこからどうすればプレイしてくれる人を楽しませることが出来るか。
そんなことを考えながらシナリオを作って行くのがとても楽しかった。
ここで気が付く。
自分はやっぱり作ることが好きだということが。
最近は忙しくて1番好きな何かを作ることをやっていなかったのかもしれない。
だからこそ感動することも無く、非感動から無感動へと切り替わっていたのだろう。
人はやりたいこと、しかも本質的に好きなことを失うと大切な何かを失っていくのかもしれない。
風にさらわれていく木の葉を横目で見ながら、夕陽の差し込む大学の1室でそんなことを思った。








































































何だからしくないことしたなぁ……。
いつも以上に悲観的なのは秋のせいなのだろうか?
それともこれから訪れる冬に追いやられる秋に感化されたのだろうか?
それともただ単に疲れているだけなんだろうか?
そのどれでもありそうなのが秋らしさかもしれませんね。
さて、流石に明日はいつものAsidに戻っているでしょう。
今回こんなに暗くなったのは勘弁してやって下さいな。