乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(11~12)
すべてのキリスト者が、このパウロの秘訣を悟ることは、聖霊によるみことばの導きによって可能であり、此処には最上の安息がある。
神が備えてくださった貧しさの中では、日々の必要を神にのみ寄り頼むことを学び、マナの養いの経験は、すべてを満たしてくださる神の豊かさを発見する時となる。
世で豊かさの中に置かれる時は、思いのままに捧げる喜びの中で、富を分かち合って教会を育てる特権を得る。
共に働く神の家族を満たす喜びは、信仰を支えて神をほめたたえる時である。また、自分自身をわきまえることを躾けられる時でもある。
飢える時こそ霊は研ぎ澄まされ、永遠のいのちの甘いみことばを食して聴き入り、天にある望みにあふれる時となる。
主に在る者はどのような境遇の中にも、キリストの恵みに満たされてあり、折々の恵みのタイミングに驚き、生きて働かれる主を近しく礼拝することができる時である。
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(13)
私たちの弱さの中に働かれる神を知る時、主に信頼することを学ばせて、経験したことのない平安に導き入れてくださる。世の貧しさも豊かさも、すべては神を経験するための道具の一つに過ぎないのである。
ただ、大きなこと小さなことを問わず、すべての時に唯一の真の神により頼まず、他のものを頼りとするなら、キリスト者には荒野を40年さまよう結果となる。そこには平安も安全もない。
私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。(17.)
ピりピ教会がパウロを助けた捧げものをパウロは喜んだ。それは彼らの献金から、目に見えない信仰を見ることができたからである。献金は信仰告白であり主への喜びの表現でもある。
また、こころみでもあり、人の前に捧げるものは人の評価とともに消費されて終わるが、人知れずに捧げられたものは、神の御前に届けられて天の口座に記される。
それは神の祝福を通って、世の必要にも役立たせてくださるものである。そう、天国貯金は世にある間も私たちのものなのであった。このことは私に経験させてくださったことである。
パウロはそれは霊的な祝福の実だと言う。あらゆるものを天の口座から出し入れする度に主を覚え、感謝と信頼のうちに祈りに導いて、平安の実を結ばせるのである。
私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(19~20)