石ころ

神の権威を見る(マルコ2章)




 先日、何十年ぶりに会う約束をした方から野菜がどっさり送られて来た。退職されたご主人との仲睦まじい家庭菜園作。都会から田舎へ逆送・・ふふふ。
電話を頂いた時、「ひとり暮らしなので送らなくてもいいよ。今度会う時に、サツマイモを1本持って来て」と言っておいたのに・・。

箱の中に人参を見つけて驚いた。
ウオーキングコースには畑が広がっており、元気な人参の葉っぱを見つけて、「自家栽培は美味しいだろうな・・」とつぶやいたことを思い出したからである。5本の泥付き人参が「聞いていたよ。」と微笑んでいる。

 以前にも、コースの途中に積み上げられた椎茸の木を見て、「主人が居たら作ってくれていたのに・・。」とつぶやいた直後に、地域で初めて椎茸木が販売され、家まで配達してくださったことがあった。

それほど椎茸が食べたいわけではい。人参はどこででも売っていて高いと言ってもしれている。
私の喜びは「主に、些細な願いさえも知られている。」という充足感であり、しるしのようにその形を目にする喜びである。


 それでも、願い続けてまだ見ることのないものがある。
日々、細やかにすべてを知って居てくださる主だから、それが今「どうしても叶えられない理由」にあるのだと分かる。些細なことではなく、とても重いことなので神の熟慮の中にあり、あるいは人に委ねられた選びの中にあるのだと、主に信頼して待っている。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:25)


 イエスさまが中風の人を癒されるとき、
「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。律法学者たちは、心の中で言った。
「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」


律法学者の「罪を赦すことができるのは神だけだ」と言う言葉は正しい。
なのに、イエスさまが罪を赦す神の権威を「いやし」という形で教えてくださったとき、みなの者は神を崇めたが、律法学者はその「みな」の中に入っていなかった。
彼らは知識によって神のキリストを裁いたが、理屈によって自分のしていることに気づかなかった。
無学な者や罪人にも、主はわざによって神の権威を知らせてくださる。日々の暮らしの中で教えてくださる。細やかにユーモアを織り交ぜて・・。

 私がにらんだとおり、自家栽培の人参は色鮮やかでカロテン充満、大根と千六本に切ってたっぷり作り置きなます。焼き芋はストーブの上。結局、このような贅沢なものが食べたかったとは・・。
出会った時このことを話すかな・・いや、そのような時間はないだろう。何しろ数十年の積もる話しがあるのだから。

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