アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、
妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。(1~3)
ペテロは此処で「聖霊を欺いた」と言っている。これは「ちょっと、いい恰好をして嘘をついた」という問題では無く、「信仰が中途半端で惜しんだ」という問題ではない。
イエスは、ユダがいつも財布から金を盗んでいたからと言って殺すことはしなかった。お金の問題なら弟子であるユダの方がよほど重罪である。
アナニアの罪は、聖霊によって生まれたばかりの完全なかたちの教会を、汚したことが問題なのである。
彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。
さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。
使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(4:31~33)
混じりっ気のない聖さが満ち満ちる聖霊の充満にあって、人々が集まり聖霊に満たされた教会が誕生していたのだ。この聖なる完全な一致に、聖霊の充満するキリストの形に、アナニアたちは偽りの汚れを持ち込んだのである。
罪をまだ知らない産まれたての教会に、サタンの偽りを持ち込んだのである。その罪は聖霊の充満による完全を、不完全なものに変えてしまったのである。
聖霊に満たされた人々が、キリストによる救いの喜びにあふれて捧げたものを、アナニアたちは人間的な遣り繰りや、誤魔化しを持ち込んで貶めたのである。
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。(4~5)
ただ、ただ、救いの喜びが満ち満ちていた所に、彼らは恐れをもたらせたのである。恐れによって捧げることは、キリストの一方的な救いにそぐわない、汚れた捧げものである。
アナニアがすべてを捧げることが出来なかったのは、教会に在りながら、すべてを満たす神の豊かさを経験していない貧しさからである。
聖霊充満の中ですべてを捧げ、少しも自分のことを心配しない人たちは、復活のキリストによって神の愛を悟り、永遠の望みを見て満足し安息していたのである。
彼らは復活のキリストに出会った時、世での生き方を悟ったのだ。今、自分が持っているものは神が備えられていたものであり、それらを通してキリストのからだである教会に、捧げる栄誉を得たのだと・・。
此処で重大な問題はアナニアもサッピラも此処に居たことである。この時まで彼らの信仰が暴かれることは無かった。彼らの信仰はサタンに心を奪われるものであり、妻と相談をして神の家族を欺くものであった。
聖霊によらなければ、神の子とされた価値がわからない。神の義にも罪にも無頓着であって、教会に居ても肉の目に見えることがすべてとなる。
彼らは神に逆らう罪を嫌悪せず、それゆえに何処にいようと何をしようと、救われることがないのである。
わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。(マタイ12:31~32)
イエスは、ご自身を嘲けり鞭打って殺す人をも、十字架の上で祈って神に執り成しておられる。隣の十字架でイエスを嘲っていた強盗でさえも、一言の願いを憐みによって聞き入れて、パラダイスに迎い入れてくださった。
しかし、御霊に対する冒瀆は赦されませんと言われた。聖霊を冒瀆するという罪の感覚はどうしても必要であり、キリスト者のいのちを左右するのである。
アナニアとサッピラの死は、この感覚によって理解するべきことである。それは単なる死ではなく、永遠のいのちを失うことだからである。
その無知は、完全な教会に満ちる聖霊の充満を、サタンに心を奪われて破壊することさえあるからである。
それは思い付きによるたまたまの過ちではなく、夫婦が話し合って選択した結果であり、彼らはその素晴らし環境に在っても、キリストを悟らず御霊に反逆する者となったのである。
神は創造の初めに人に自由を与えられた。人はその自由の用い方に責任を負っている。
自由の用い方を間違って罪を犯したアダム以来、神はキリストによる救いを備えてくださったが、人がどのようにキリストを信じるか、キリストの昇天によって遣わされた聖霊に、どのように応答するかは、それぞれに与えられた自由なのである。
それは神の御子の命がかけられたことゆえに、キリスト者も、たまわったいのちに相応しい応答をしなければならないのである。
イエス・キリストという途方もない対価が支払われて、たまわった神の子のいのちであれば、ある時はサタンに同意し、ある時は神の側にいるなどということが見過ごされることではない。聖なるものと汚れたものが同居することを、神が赦されるならキリストの十字架は不要であった。
アナニアとサッピラがどれほど厳しい罰を受けても、命が在れば悔い改めて主に引き返すことも出来たが、死ねば悔い改めのチャンスは無い。即死はそれだけ彼らの罪が赦されざるものであったのだ。聖霊を汚す罪は赦されないとイエスは言われた。
それゆえイエスはご自身を売った後のユダにも、「友よ」と呼びかけて悔い改めの時を備えられた。彼はたまわった時を悟らず自ら滅びたのである。
主は即座に教会の汚れを抜き取って、キリストのからだに相応しいかたちを守ろうとされたのである。
復活のキリストに出会った弟子たちは、五旬節に聖霊のバプテスマを受けて、永遠のいのちの喜びに溢れた。
彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、(2;41~46)
此処で捧げられているものは、律法に拠る十分の一ではなく命を養うすべてであった。それは彼らの受けた分が、神のすべてでもある御子イエスの命だったからである。その捧げものは組織を支えるためのものではなく、神の愛に対する応答だったのだ。
サタンはその喜びを破壊するために、アナニアを用いたのである。彼も妻のサッピラと共にその誘いに乗ったのである。それは、彼らがキリストの十字架に無関心だったからある。
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイ12:16~24)
キリストの十字架に無関心な者が自分の十字架を負うことがあろうか、その人はもとよりキリストのものではない。
キリスト者にとってすべての始まりは、キリストが負ってくださった十字架にある。聖霊の導きによってキリストの十字架を味わい続けることこそ、自分の十字架を負う秘訣なのだ。
キリストの血潮によって買い取られたいのちはキリストの奴隷であるが、人はキリストに留まらずに自由にふるまうことが出来るのだ。
復活のキリストに出会ってもサタンに心を売る自由もあり、神の子を捨てて滅ぶことも出来るのである。
神のことばを通訳してくださる聖霊、主に依存して生きる術を導く聖霊を無視するなら、善悪知識の木の実由来の賢さによって、サタンに心を奪われて滅びを選び取るのである。それはどれほどにキリストを悲しませる者であろうか。