石ころ

聖絶(民数記21章)

 

 ネゲブに住んでいたカナン人アラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来たと聞いた。彼はイスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえた。(1)

 

問答無用で襲い掛かって来る敵には主が勝利を取ってくださる。神が愛する者に対する憎しみは、神に対する憎しみでもある。

 

そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」(1~2)

 

この時イスラエルは主に祈って戦いの備えをした。神の民の武器は第一に祈りであり、先立つみことばの約束である。

如何なる時代であっても,、どれほど強い敵であっても、それらの命も創造主の御手のうちに在り、神に知られずに地に落ちる命は無く、雀一羽の命さえもご存じなのであって、生かすも殺すも主のご支配に在る命である。

 

二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。(マタイ10:29)

 

キリスト者は鼻から息をする者に縋ることなく、主に信頼して祈り、たまわったみことばの真実を経験する者である。日々にみことばに信頼して主と交わり、御名を崇めて主をほめたたえて成長して行くのである。

 

 正義を成すのに人間に寄り頼むなら、その永遠を知らない正義は、やがて正体を現わして彼らの恥となる。人の正義は時と共に移ろうものであり、人は神の義を悟らず、ただ永遠をご存じの神のみが義である。

 

主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、イスラエルはカナン人とその町々を聖絶した。そしてその場所の名をホルマと呼んだ。(3)

 

神がイスラエルの手に渡された命に対して、彼らはみこころを行ってその地のすべてを殺した。それは創造主なる神が崇められ、地に神の義が成るためであった。敵を聖絶したのは、創造主なる神を無視する悪を断ち切るためである。

主を蔑ろにする者には永遠に燃え尽きない炎のゲヘナが待っている。それは聖絶の無い今も同じである。

 

すべての人類に、神に逆らったアダム以来の罪の血が流れている。それゆえ神は、罪の代価としてキリストの十字架のあがないを準備してくださった。
人は十字架の救いを受け入れみことばを聴き続けることにより、神に逆らう罪から守られるのである。

 

 キリストの一方的な御救いを受けた者が聖絶するべきは、善悪知識の木の実による賢さや、人の知恵を愛する生き方である。これらはすべてサタンからのものである。

 

世には神に逆らうあらゆる知恵が満ちており、もっともらしい賢い言葉は創造主を否定して、人間の知恵の積み重ねる塔を築き、上に上にと追い立てる。
しかしそれらはサタンの手であって、ゲヘナに叩き堕とすために備えたものである。世は、サタンがアベルを通して仕込んだ賢さをフル活用する場なのである。

 

 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(1コリント1:18)

 

キリスト者は世の言葉には耳を貸さずに、みことばに聴いてすべてを判断する者である。その時神の力を経験しつつ、永遠のいのちの在り処に向かって生きるのである。

 

しかしキリスト者であっても、心のうちに賢くありたいと願うものがある。ソロモンは知恵を求めて与えられたが、彼はそれによって葛藤も得たのだ。彼の老後にはその渇きの結果が見えるのである。
主に対して愚かなまでに信頼することは聖く、その信仰こそは平和の根幹である。

 

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

 

キリスト者も主と共に格闘しているのである。その相手は目に見えるものではない。聖霊と共に働く霊が目覚めているなら、惑わされて人間を相手に戦い続けることがない。神である聖霊は敵の正体を教えるからである。

 

主の羊は狼の跋扈する世に在って、群れることで犠牲を減らすのではなく、一人ひとりが主に信頼する信仰の中で、一つの御霊に在って世にみことばの光を掲げ、国籍である天に向かって駆ける者である。

 

 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(Ⅰコリント1:21)

 

神の知恵は聖霊の解き明かしよってキリストのことばを味わい、その真実を経験してキリストにより頼み永遠を生きることである。
その人は経験したみことばを、確信に満ちて真っ直ぐに伝える。人を救うのは言葉の巧みさではなく、神の選びに拠ることを知っているから、望みをもって語り続けるのである。

 

 人の賢さへの渇きは「神に成りたい」という願いが根底にあり、世のヒエラルキーの頂で思いを果そうとする欲望である。
それはサタンが求めたものであり、エバが誘惑されたものである。

 

上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。(ヤコブ3:17)

 

神からの知恵は人に渇きを与えるものではなく、平安をもたらせるものであり、弱さをも愛する力だから自分を偽る必要がなく、無力な人に仕えてくださったキリストに似たものとする知恵である。

 

それはみことばを聴いたままに受ける純真な魂を育てて、すべてを主に信頼して委ねる聖さとなり、父を信じて疑わない幼子の心をもたらせる。
この世に生きている間も、御国に住まっている心地を味合わせる。そう、みことばの約束に拠ってすでに国籍は天にあるのだ。

 

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20)


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