石ころ

今日のみことばから(ヨハネ11章)

 

姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(3~4)

 

私たちは病気に罹らないことで神の栄光が現れることを願う。病んだときにはすみやかに癒されることを祈る。
それは私たちの最善であって、神の最善は違うことがあることを、今日、この個所から示された。

 

イエスさまは多くの病人を癒され、神の栄光を現わされた。しかし、この個所では、かってない神の御わざが現われ、キリストが栄光を受けられるためにラザロの病気が用いられた。私たちの最悪が、神さまによって最善となることがあるのだった。

 

イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。(5~6)

 

イエスさまは、「マルタとマリヤを愛しておられた。そのようなわけで・・」、愛している者を用いるために、すぐには駆け付けられなかった。
不幸なことが起こり助けを祈った時、愛する者に準備されたもっと良い計画のために、すぐにはきかれない祈りもある。

 

「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(9~10)


 
伸ばされた二日は昼間の光の中であるということ。神のご計画の中にあるなら昼間の光に居り、神の関わりのない時間が夜の闇なのである。
この間にラザロは死んでしまうが、それが病であろうと死であろうと、イエスさまに知られている時間は光の中にある。

 

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」(21~22)

 

マルタは信仰のすべてを告白したが、イエスさは彼女にその言葉を経験させてくださるのである。知識だけの信仰に御わざを見せて、神のキリストを体験させてくださる。

 

イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(23~24)

 

マルタは懸命にイエスさまのみことばを信じようと、知識によってよみがえりの信仰を守ろうとしている。

 

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(25~26)

 

イエスさまは彼女の信仰を受け入れて保証し、のちに、誰も見たことも聞いたことも無い死者のよみがえりを、彼女に見せて信仰の成長を導かれる。知識で信じることと、御わざを見ることによって、神のキリストを礼拝するためである。

 

しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。(37)

 

ラザロの墓に向かうときイエスさまは非難される。人は自分たちのストーリー通りでないと、イエスさまに留まることができなくて非難する者となることがある。
イエスさまは放っておかれた。信仰の筋書きは主にお委ねしておれば良いことである。褒められようとも、そしられようとも、後で分かるまで放っておけばよいのだ。

 

イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(39~40)

 

「石を取りのけなさい」命じられた時に従わなければ、マルタは奇跡を見ることはできず、兄弟を取り戻すこともできない。イエスさまも神のわざを行うことができないのだ。

死者をよみがらすほどの権威をもっておられるお方でも、私たちがイエスさまに死臭をさらすほどに、すべてを委ねないなら何も起こらず、ただ、知識だけの信仰にとどまることになる。

 

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」(41~42)

 

イエスさまは、すべてを御父のみこころに通して行われる。良いことであっても自分勝手にはなさらず、御父に祈りを捧げなさるのは、御名があがめられるためである。このことは私たちが失敗しないために、覚えておくべきことである。

 

そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(43~44)

 

命を支配しておられる方、神のキリストをマルタは目の前で経験したのだ。彼女と一緒にいた多くの人々もイエスを信じ、この死者を生き返らせる神のわざは語り伝えられて、神の子の栄光となり、地上では見ることのできない終わりの日のよみがえりではなく、多くの人が目撃する神のわざであった。
今聖書の記述によって、私たちも終わりの日のよみがえりの確信を確かにするのである。

 

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)
イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。(12:17)

 

 新型コロナウイルス問題の中にあって、不安や思い煩いを感じる中で、今日のデボーションで示されたみことばから。(2020.2.16)


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