石ころ

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(Ⅰヨハネ2章)

 

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(15)


神は世を愛してキリストをおくってくださった。イエスさまは世にある私たちを愛して、救い主として来てくださった。神はひとりも滅びることなくすべての人が救われることを望んで、キリストの十字架によって、すべての人の罪をあがなってくださった。


しかし、世はキリストを受け入れず、ごく一部の人がキリストを信じて救われたのである。「世を愛するな。」という私たちへの警告は、滅びることを選んだ人々の生き方に倣うなということである。
「見よ。すべてが新しくなりました」とみことばを聴いたときから、私たちは霊にあって新しく生まれ、神の国に国籍を置く者だからである。


すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。(16~17)


世は肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢がすべてである。この世かぎりのそれらの誇りを取り去られると何も残らない。
しかし、キリストの御救いを受けて、みことばにある永遠の希望、明日の保証を持っている者には、それらはすっかり色褪せてしまったのである。


みことばを聖霊を通して細やかに教わり、知れば知るほど日々に体験させて、生けるいのちの言葉だと知るようになる。その人は、御父の愛に安息し、興味は世のものから天に移ってしまっているのだ。誰が永遠に価値のある宝を握った上で、時に流されてやがて滅びるものに執着するだろう。
もし、執着しているなら、その人は未だ永遠のいのちである、神もキリストもわかっていないのある。


小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。(18)


キリストの愛を粧って、その実みことばに逆らうものが蔓延り、それらは人の感情を掻き立てて世にのさばる。それは一見とても良いものに見えて、正義と思わせて、人々の心を奪い取って行くのだ。

聖霊に拠らないければそれらに対抗することできない。人の理論では戦うことはできない。ただ「主はこう言われる」と聖霊による確信に満ちて、みことばを語り主に身を避けるのである。


彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。(19)


肉からのものではなく、聖霊に在っての分裂は聖別である。おのおの自分でキリストに聴いたことばによって、拠って立つ所を選択しなければならなくなる。世的な理由による一致は、みことばの光の中では耐えられないからである。


しかし、真のキリスト者は何処にいても一つのキリストのからだであり、一つの御霊に在る。互いにキリストの各器官として働きを成し、共に祈りの中にあり、受けたみことばを語り合い、お互いのたまものによって養われてもいる。


しかし、それはすべて頭なるキリストに捧げられたものを、キリストを通してたまわるのであり、それゆえ、すべては時に叶っていて最善となるのである。
そんな人に肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は無用である。


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