石ころ

使徒の働き⑧ (5章)

 

宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。人々に石で打ち殺されるのを恐れたからである。(26)

 

神を恐れない者は人を恐れなければならない。役人たちは権威下に在っても人を恐れていた。
主にすべてを委ねている使徒たちは、嘲りも死も恐れずにキリストの福音を誰にでも、何処ででも、何時でも伝え続けて止めなかった。

 

彼らが使徒たちを連れて来て最高法院の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した。(新改訳2017)(27)

 

権威のある所で、最も権威のある人によって尋問されているということは分かるが、
彼らが民衆をあおって「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」(マタイ27:25)と言わせたことを知っているはずである。

 

「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」(28)

 

「あの名」と彼らは呼ぶ。聖霊によらなければ「イエス」の存在を認めることは出来ず、今も聖霊による確信がなければ「イエスさま」と呼ぶことを避けて、曖昧に「かみさま」という言葉を使うことになる。

 

彼らは、イエスが世界中で礼拝されるようになり、血の責任が問われることを恐れていたのだ。しかし、たとえ使徒の口を封じることが出来ても、その事実が無かったことにできるほどに赦すことが出来る方は、イエス・キリストだけである。

 

彼らが主の御前にひれ伏し、聖霊の導きによる悔い改めを神は待っておられる。イエスの流された十字架の血潮は、彼らのための執り成しの祈りと共に、取り置かれているのだから。

 

 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」(29)

 

キリスト者の基本。如何なる組織よりも、権威よりも、神に従うのが神の子である。此処に在ってこそ、福音を真っ直ぐに語ることができる。
その時主は、すべての必要を備え命のことを心配をしてくださる。また、時が来たら天の永遠の住まいに迎え入れてくださる。

 

アナニヤとサッピラのような献身を受け入れてはならない。主に委ねずに隠し持つ罪こそサタンの足台となるからである。その一穴から教会の祝福が持ち去られて行くからである。

 

使徒たちがそうしたように、神に従うこととは善行も悪行もすべてを主の光のうちに置いて、主の裁きに委ねることである。主はそれらを用いていのちを祝福し、永遠に価値あるものとして返してくださるから・・。


また、世に生きるすべてに恥をかかせないほどに、喜びと賛美が口からあふれるほどに、備えてくださることを経験している。

 

私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。
そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。
私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(30~32)

 

使徒たちは、復活されたイエスが神のキリストであり、父なる神から遣わされた方であること、聖霊による証と、三位一体の神を伝えた。

 

彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。(33)

 

イエスの復活の事実を知っていながら、理性も知性もなく駄々っ子のように否定する愚かさ。聞きたくない言葉は殺してしまおうというのは、イエスを殺した時と同じである。

 

ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。(34)
そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。(38)

 

主には敵も味方もあらず、すべてのことを用いてご自分の計画を遂行される。弟子の命は如何なる時も主の守りの中にあり、敵の手の中ではない。
使徒たちは、限りある地上での命を惜しむ必要が無いことを知っていたから、命を完全燃焼することが出来たのだ。

 

「しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、
使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。(39~40)

 

イエスを打ったのと同じ無実のむちである。弟子にはイエスの御足跡を行くことほどの光栄はない。彼らはむちによって、なをも福音を伝え続ける自由を得たことを喜んでいる。

 

福音は神の良き知らせゆえに、それを伝える者には大きな喜びがある。それゆえ、歴史にある無数の殉教や、苦難や、迫害の中ででも福音は伝え続けられ、世界中でイエス・キリストの名を知らない人はないほどに、広がって行ったのである。

 

そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(41~42)


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