石ころ

ヘロデの信仰 (マルコ6章)




 イエス様の郷里でみことばを聞いた人々の答えは「この人のことは良く知って居る」であった。それですべては終るのだ。
「あなたの信仰が・・」とイエス様は繰り返し言われる。信仰のないところではイエス様でも何も出来ない。信仰によることは麗しく主のお喜びとなるのだが・・。

 12弟子は何も持たずに遣わされた。彼らが運んだのはイエス様であった。だから何も無い彼らを通してイエス様が働かれたのである。だから、ユダであっても良いわざを行う事が出来たのだ。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)


 ヘロデは喜んでバプテスマのヨハネの言葉を聞いていた。しかし、聞くだけで行いという根がない者はいとも簡単に罠にはまる。いくら聞いてはいても信仰が成長しないからである。彼はヨハネを解放するべきであった。
どんなに喜んで耳を傾けていても「みことばを聞くだけ」のヘロデも群衆のひとりに過ぎなかった。

それでもイエス様は押し寄せてくる群衆を深く憐れまれ、みことばを語りパンを食べさせてくださった。それは霊と肉の糧である。しかし、群衆の関心はパンであった。イエス様が後にそう言っておられる。

その時、イエス様は弟子に「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われた。イエス様が数によってわざを左右されることはないのである。
5つのパンと2匹の魚、5000人以上が満腹して12籠あまった。この経験をイエス様は弟子に覚えさせようとしておられた。

神様の豊かさと御力を記憶させるためであったが彼らには残っていなかった。みことばを繰り返し聴くこと、読むこと、覚えることは主に在って生きるための糧である。それを忘れると信仰は死ぬ。

その経験を覚えていないから湖でイエス様が分からなかったのである。側を通り過ぎる救い主を見て「主です」と叫ぶなら、それで勝利を得るのである。
幽霊と見えたのは、みことばを聞いても御わざを見ても感動もしなかったからである。「心が鈍くなっていた」と書かれてある。そのことはイエス様をどれほど疲れさせることだろう。

信仰生活には、主の憐れみによる奇跡が大いこと、小さいこと幾度も経験するけれど、次の問題と共にそれらは一時の喜びとなって、すぐに持ち去られ忘れ去られてしまうのである。心が鈍くなってしまわないように、絶えずみことばに感動して主に留まってなければ、どのようなお方であったか主がわからなくなってしまうのだ


イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。(マルコ6:41)


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