石ころ

命を捧げる(マルコ12章)




それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。

すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。

みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:41~44)


イエスさまは女を待っておられた。しっかり見届けて弟子と共に喜ぶために。イエスさまが喜ばれるのは、人の心にある主への信頼である。
生活費とは命を支えるためのもので、それを全部捧げると言うことは命を捧げることである。

彼女は、神を愛する愛を出来る限りの事をして表現したのだ。主の残してくださったレプタ2枚、それが完全な捧げものとして彼女の聖さを証明した。サッピラではないことを・・。すべて捧げものは主が備えてくださったものである。

キリスト者がどんな形であっても、命を捧げようとしているとき、主は先回りして見届けていてくださる。使徒とともに喜ぶために・・。
それはなんと安心なことだろう。ドッカと前に座って見てくださっているではないか!

しかし彼女は、死のうとしたのではない。もっとも確かな生き方をしようとしたのだ。自分の生活設計に神の恵みを織り込むことはできない。それは肉なるものと聖なるものを混ぜることだから。

神には神のご計画がある。彼女はそれを選び取ったのだ。あえて彼女のその後が書かれていないことは、私たちの信仰によって彼女のその後を知るためである。

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