石ころ

神の義と神の愛(黙示録8章)

 

第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。(7~8)

 

地が打たれるとその貧しさが人々を襲うことになり、暮らしが追い込まれてゆく。しかし、神が打たれた地は、神の作品であり神の喜びだったのだ。

 

神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記1:31)

 

創造主である神に痛みがないだろうか、祝福が呪いとなるのは何ゆえか、すべての罪や神への背きを、許容しない神が悪いと言うのだろうか。
しかし、もし神が罪に汚染された状態を放置するなら、地上そのものが終わりのない罪の満ちる所であり、すべての人が逃れる場をなくすのである。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 

「これはわたしの愛する子」と言われる御子を世に下し、世の悩みと病と嘲りに置いて、無実の十字架刑に処せられたのは、神が人を愛されたゆえである。
罪の無い御子は、負った人の罪のゆえに、罪を受け入れることの出来ない御父に見捨てられ、ひとりぽっちの十字架の上で、なを神に執り成して祈ってくださった。

 

人はその御子を否み、十字架のあがないを無視し、神の忍耐を軽んじて、神に愛がないと責めて黙示録を否むのか。
「愛の神の御性質に、永遠のゲヘナの裁きなど有り得ない」という言葉を聞いた。彼はその論拠をみことばから示さなかった。みことばに依らない神の御性質は、なにものから聞いたことなのだろう。

 

彼の間違いは、神の愛がキリストを通って届けられていることを見落としている。神の救いはキリストを通してのみ現れるのである。
キリストを拒絶した者が神の愛を受けることはない。なぜなら、その愛を信じないことによって、あがないを失うからである。

 

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)

 

キリストは神の義と神の愛成就してくださったのだ。神はキリストによって完全な愛を準備してくださった。
それゆえ人は、ただ信仰によってのみ救われるのである。それは、子供でも受けることができる救いであり、貧富の差もなく、知識の差もない。

 

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)

 

神の義による裁きから目を背けさせることは、キリストの十字架のあがないを無にすることである。
黙示録はキリストの十字架のあがないに留まって、神の究極の愛の中で選り分けられる、義の裁きと愛の完成を悟るためのものである。


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