石ころ

何でもほしいものを求めなさい

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 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)

 みことばの前提条件は、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」とある。
それは、キリストの血肉を分けた者としての関係にあるのだ・・とどまるとはそういうこと。
葡萄の木と枝はひとつのものである。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:56)

 子が親を信頼に足りると思う良好な関係なら、どんなことでも安心して話すだろう。相談や、助けて欲しいこと、かなえて欲しい願いなど・・、親の好みに合わせた話ばかりではなく、自分の思う所を自由に打ち明ける事も出来るだろう・・。

ある程度成長したなら、結果は親に聞き従い「待て」と言われれば待つし、「駄目」と言われれば涙をのんであきらめるだろう。
それが出来るのは、生まれてから今日までの親の愛と訓練によって、それが最善であることを経験しているからである。


 創造主なる神様がキリスト者に求めて居られることは、「アバ、父」なる神様を知ることである。神様は私たちのことをすべてご存じであるが、私たちは祈りによって話し、すべての機会を用いて求めないと、みこころを知ることは出来ないのである。
なぜなら、生まれながらの私たちが、神様の思いを計ることは決して出来ないからである。

主との関係は霊的な交わりであるから、私たちの成長に従って聖霊がみことばを通して思いを伝えてくださる。
しかし、知って居ることとそれが出来る事とは違うし、まして、納得できることとは違う。

だから、なんでも求めなさいと言われ、肉的な思いを祈ることさえ許されているのだ。なぜなら「アバ。父」だから・・それほどに親しい関係なのだから・・。
信仰が建て前と本音のような二重構造にならないために、何でも求めることができる関係に置かれているのだと思う。

そもそも、主は私たちの心のすべてをご存じなのだから、何一つ隠すことなど出来ない。
イエスさまを通して賜ったものは、奇跡の大小を問わずすべて交わりの実であるから、素直に受けて大いに喜び、求めればよいのである。

ただ「アバ、父」は「主」でもあり、主として従順するという当たり前のことをわきまえておれば良い。
それは、私たちにとって何が最善であるかを知るのは、ひとり造り主だけであるから・・。


 命が守られることをどんなに祈っても、人は必ず一度死ぬ者である。それが時に祈りの答えであり父の愛である。
死もいのちも永遠の関係に在る身には、生きる場所を移しただけのことであって同じようなものである。

いや、キリスト者にとって召されたことはゴールに到達したことであり、世の人にはどの様に見えようとも、御側にいる方がはるかに素晴らしいことである。
すでに主の必要を満たした者とされたのだから・・。


 主を主とするなら、なんでもほしいものを求める祈りの中で、日々「アバ父」との交わりを楽しみ、愛を知る喜びを増す時、みことばは霊ばかりではなく魂をも満たして感動となるだろう。
その時間は訓練の時でもあるのだけれど、交わりはみことばのご真実を経験させ、制限に拠ってではなく、成長したみこころの祈りへと導かれて行くのである。


あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

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