石ころ

告白 (マルコ8章)




ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
ペテロがイエスさまを告白したことで、イエスさまはこれからご自身に起こることを話された。

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
しかも、はっきりとこの事がらを話された。


 ペテロに在ったキリスト像は、人のために病人を癒し、悪霊を追い出し、パンを増やして人々を養い、やがてはローマに占領されている地を解放する王であった。
ましてや、最悪の十字架という刑に処せられ死ぬ・・そうして・・いや、それは彼にはあまりに愚かなことであったのだ。

するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」


イエスさまは「さがれペテロ」とは言われなかった。そこに変わることのない深いご愛を感じる。主はペテロの中に働くサタンの計画を退けられたのた。
サタンが十字架刑を思いとどまらせようとすることはない。ユダを使う手間がはぶけるのだから・・。此処にあるサタンの計画は、人が「神のことを思わないで、人のことを思う」である。

それは、人間中心のヒューマニズムに神が仕えることである。しかし、イエスさまの十字架は御父なる神のご計画によることである。イエスさまは御父のみこころを行うために来られた。人の救いにおいて似ているようでもそれは全く違うことである。

ペテロの考えはすべての人にわかりやすく、人から出たものは人に理解できるが、神のご計画は人の魂に逆らうものである。神は霊であるから、霊のことは霊に拠らなければ理解できないからである。
だからみこころを行うとき、親しい人からいさめられることになる。イエスさまも家族から理解されることはなかった。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」


人の拍手喝采を得て銅像を建てられても、いのちを失ってはそれは空しい。人の命は草の露のようである。
自分の心に逆らっても、みことばをそのままに受け入れ一歩踏み出すことは、「自分の十字架」の重さを実感する事である。でもその時に、先を行かれるイエスさまの十字架を見ることができる。

自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。


みことばをはっきり語れないのはイエスさまを恥じるからである。神の計画を恥じるからである。ペテロと同じように愚かさを感じて恥じるのである。
しかし、イエスさまはペテロの「あなたはキリスト」という告白に、十字架から再臨までをはっきりと教えてくださった。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

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