そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。(Ⅰコリント6:7)
聖霊による神への従順がないところでは、互いに訴え合い、裁き会うことで自分の正しさを得て安らごうとする。それが世の様である。
しかしキリスト者が安息するのは完全に、十字架のあがないに拠ることである。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(Ⅰコリント6:19~20)
キリスト者が聖霊の宮とされたのは、御子の十字架によって罪の代価を支払われ、神に買い取らた子だからである。
今、自分が何者であるかを知り、すべてに神の助けを受けて「アバ父」と呼ぶ者であることを悟るなら、自分自身を手放してしまう。キリスト者は神のすべての宝をたまわっているのだから。
聖霊の導きによって、体を用いてみこころを行うなら神の栄光を現すという・・なんという望みだろう。イエスさまが洗ってくださった者の聖によることである。
良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカ6:45)