石ころ

逃れの町(民数記35章)

 

主はヨルダン川のほとりのモアブの草原で、モーセにレビ人に町々と放牧地を与えよと告げられ、そこには人を殺した者が逃れるための6つの町を備えるように命じられた。

 

あなたがたは町々を定めて、自分たちのために逃れの町とし、誤って人を打ち殺してしまった殺人者がそこに逃れることができるようにしなければならない。
この町々は、復讐する者からあなたがたが逃れる場所となる。殺人者が、さばきのために会衆の前に立たないうちに死ぬことのないようにするためである。(11~12)

 

それは「自分たちのために」とあるのは、誰でも悪意はなくても人を死に至らせ得るからである。その人が復讐によって、正当な裁きの前に殺されないための避け所が備えられた。それは弱い肉体を持つ人に対する主のご配慮である。

 

もし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。(16) 

 

鉄の器具で打つのは過失ではなく殺人である。敵意をもって殺した者と同じように、奪ったいのちには自分のいのちをもって償うのである。

 

あなたがたは、殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は死ぬべき悪しき者なのである。彼は必ず殺されなければならない。(11)
あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。(33)

 

いのちに対する正当な対価はいのちであり、殺人者が金で解決することは許されない。それはいのちに対する冒とくである。
神のものであるいのちを金で買い取ることは出来ず、神が創造された地に神のかたちに造られた人の血を流すとき、その罪に対していのちが必要なのである。

 

このことは、目や歯を奪われた者は同等の目、歯によって復讐を終えよという命令でもあり、倍返しを許さないためでもある。
現在は故意でない死に対する責任を、保険などで金銭を支払って償うことがあるが、それはどれほど高額であっても、命に値するものではなく精一杯の謝罪に過ぎない。

 

「目には目を、歯には歯を」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。(マタイ5:33)
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

 

ご自分のいのちをもって律法を全うされたイエスは、キリストの律法を語られる。キリスト者には永遠のいのちが備えられ、信じた時からそのいのちを生きており、それはどんな敵も奪えないものである。

それゆえ、キリスト者は復讐や恨みや呪いのない所に生きて、世で起こったことは世の裁きに委ねて、失うことのない希望とキリストの平安に守られる。

 

悪意に対して悪意で返すことをしないのは、キリストの豊かな愛の中で癒やされて、聖霊によってキリストに似た者とされているからである。
イエスは十字架上でご自分を殺す者のために祈られた。これがキリストの愛であり、父なる神のみこころである。

 

キリストは罪人に対して救いの道となってくださった。悔い改めてキリストを信じるなら、十字架の血潮は彼をもきよめるのである。まことにキリストは罪びとのために来てくださったのであり、十字架は信じるすべての者とって、神の愛が満ちあふれるいのちの恵みである。

 

殺されたり、傷つけられて失ったものを完全にあがなうのは、十字架で聖い血を流してくださったキリストのいのちである。私のために尊い血を流してくださったと主を近しく知る時、世のすべての理不尽を忘れさせる完全な慰めを得るのである。

 

キリスト者はみな、神に罪を赦された深い感謝と平安の中で生かされている。キリストは信じる者すべての逃れの町であり、そこに住む者は罪を憎んでも人を憎まずに許す力を、聖霊によってたまわるのである。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事