ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」(マルコ2:18)
イエスさまと共にある食卓は祝い膳である。罪を赦す権威ある神を喜ぶ祝いの席である。断食も聖日も約束事でなく主との関係によることである。
何が良い事で何が悪いことなのか、今何をするべきで何をするべきでないのか、それは主に聴くことであって習わしによることではない。すべてのことは主を喜び、主にやすらうためのものである。
マタイや、ザアカイがイエスさまを迎えて、喜び勇んで準備した食卓で断食するだろうか。救い主を喜んで集まった罪人たちを悲しませるだろうか、イエスさまは彼らに救いの喜びと、立ち上がる力を与えるために来られたのである。
わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6:6)
神は御子を賜るほどに世を愛された。犠牲を求めるのは彼らの宗教である。イエスさまはそのことを教えるために、神のわざを行ってご自身を示されたが、人に謙遜がなければ神を裁くことさえする。
イエスさまはご自身をわざによって証されたように、キリスト者にも神のわざを行わせなさる。それは謙遜によらなければ見えないことで、罪のかたくなさは目の前の事実から目を背ける。
しかし、キリスト者は神のご計画のうちにあり、ことを遂行されるのは主である。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
昔、ダビデたちが、供えのパンを食べた記事を読んだときは驚きだった。此処を読む度に懐かしくその戸惑いを思い出す。神は殺す神ではなく、生かす神なのだ。御子をたまわるほどに・・。
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