石ころ

キリストのうちにいる者③(Ⅰヨハネ5章)

 

神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(18)


聖霊のバプテスマによって新しく生まれ、キリストの中に安息している者は、神の愛に満ち足りており、虚しさや渇きからくる罪の誘惑には興味を持たない。絶えず、キリストの慈しみに満ちた眼差しを意識しているからである。


私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。(19)


それはすでに今、天に住むことと、地に住むことの違いである。キリストにいることは天にいることでもあり、キリスト者が生きるのは永遠の霊にある。その人は、悪いものの支配による死に脅され、引き回されることはない。
ただ、私たちもキリストに出会うまではそうであったのだ。


しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(20)


みことばを通して、キリストを知ることは全く聖霊の働きによることである。イエスのメッセージを直接聴き続けても、癒しを目撃しても、肉の耳や目によることでは悟れない。
今聖霊をうちに宿す私たちは、なんと恵みの中にあることだろう。それは神の丹念な愛の備えなのだ。


神の子はキリストのうちにあり、キリストは私たちのうちにおられる。これほどの濃密な関係にあり、聖霊は私たちの世の日々をも、みことばを解き明かして導き、「これでもか!」というほどの守りに置かれている今である。


キリストは永遠のいのちであり、私たちはすでに神の約束の永遠におり、世で生きいる時も肉体の死を迎えた時も、霊はキリストに在って何も変わらない。


子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(21)


この神の万全の備えをわきまえず、知ろうともせず、人の言い伝えに漫然と流される心は偶像を礼拝している。口先でなんと言っていても、キリスト以外のものが心の王座を占めているのだ。
聖霊の導きによるみことばの知識を増して、私たちの神を愛する愛を守らなければならない。


神がひとりの御子を十字架に掛けてまで、救われたことを本当に知るなら、その御愛をもっともっとと知りたくて、みことばを、御声を聴くためにあらゆる手段を用いるであろう。どんな組織も、誰もそれを止めることは出来ないだろう。
キリストに冷ややかなのは偶像礼拝によるのだ。


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