石ころ

再臨の主を待つ間(マルコ13章)

 

  だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。(24~26)

 

宇宙の太陽や月や星までもが不安定に揺り動かされる時が来たなら、キリストの信仰を戴いた者が、完全な新しい天と地に移される時が、近づいているしるしである。


宇宙も地球も草や木や動物たち、すべての被造物がアダムの罪によって傷つき、創造の初めの完全を失ってしまっているのだ。それらは今、うめきつつ神の子らがあがなわれ、新しくされる時を待っている。

 

このことは、宇宙のすべてを造られた圧倒的な力によって、すべての被造物が一新されることである。創造者でもある神のキリストが、真の栄光の御姿で再び来られて完結するのである。

 

キリストは、処女マリヤの胎に来られて人の手によって育てられ、それも田舎の大工の家で人に仕えて働かれ、十字架刑で人類の罪をあがなってくださったことは、神の究極の謙遜であったのだ。

 

2012年に金環日蝕を見た多くの人々は、その感激を話しておられた。それは、やがて見ることになる再臨のキリストの、栄光の御姿をチラッと覗き見た感動なのだろう。
輝くキリストの再臨を悲しみながら見るか、喜びの中で見るかを選ぶのは今である。

 

そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(27)

 

地の果てにある死んだ者も墓から呼び集められ、キリストを信じたイスラエルも、また携挙から残されて、悔い改めた人々も集められるのだろう。
艱難前の携挙は望むけれど、再臨の主の栄光の御姿を見たいという気持ちもある。金環日蝕でさえもあれほどに感激したのだから・・、

 

いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。(28~29)

 

イエスさまが空腹であった時、一つの実さえ結ばなかったイチジクの木は枯らされた。イエスさまの喜びが自分の喜びとなり、主を知ることをいつも願って、みことばに耳を澄ましているなら、きっと必要を満たすことができると思う。

 

十字架を前にされたイエスさまに、香油を注いで埋葬の用意をした女は、いつもイエスさまのことで心がいっぱいだったのだろう。思っていたから時を察したのである。彼女にはイエスさまが高価な香油よりも大切な宝だったのだ。

 

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:21)

 

世の終わりが近づくにつれて、一人ひとりの信仰の姿が露わにされて行く。関心のあることに心は奪われるものだから、世に一杯いっぱいでは何を見ても悟ることはなく、イエスさまが戸口に立って叩いておられても、あれこれと騒々しい心は聞く耳をもたないだろう。

 

まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(30~31)

 

艱難を必ず通されるのは、その時心を柔らかくして主に救いを求める者のためである。艱難の中では、人の心はいよいよ頑なになると書かれてあるが、それでも、聞いたことのあるみことばを思い出し、心を刺されて悔い改める者に、艱難さえも最後まで差し伸べられてある神の御手となる。

 

イエスさまはことばなる方、天地創造は言葉によって造られた。みことばだけが永遠なのである。すべてのものが過ぎゆく中で、キリスト者はみことばによって新しく造られた者であり、再び新しく造られる者である。

 

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。(32~33)

 

確かにその日は、イエスさまさえ知らないと書かれてある。(もっともそれは、イエスさまが地上に居られた時のことであるが)人の賢さによって先回りして、主を待ち伏せするようなことは無いのだ。神のなさることは何時も人の考えと真逆であるから・・。

 

でも、私たちの内に居られる聖霊は、すべての事をちょうど良い時に教えてくださる。そう、それは絶妙なタイミングで・・。
いつも霊が目覚めていて耳を澄ましているなら、耳の後ろから呼ばれる、聖霊の細い御声も聞き取ることができる。

 

それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。
だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。(34~35)

 

眠っているとは主を忘れていることである。みことばを何処かに置き去りにしている時間である。その時、人の肉の力は眠っているわけではなく、将来に向けて世でしっかり活動しており、一生懸命に働いている。そう、みことばをすっかり忘れるほどに・・。

 

主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。
わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。(36~37)

 

何が一番大切なのか。それは命であり、いのちはイエスのことばにある。もし、これを二番目に置くなら肉体の死と共に、永遠のさばきを受けることになってしまうのだ。


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