石ころ

ベニヤミンの祝福(創世記45章)

 

ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。
ファラオはヨセフに言った。「おまえの兄弟たちに言うがよい。『こうしなさい。家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、
あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたに、エジプトの地の最良のものを与えよう。あなたがたは、地の最も良い物を食べるがよい。』」(16~18)

 

神はご自分の民を世で養われる。すべてのものは神が創造された作品であり、全地の産物も神が与えてくださったものである。すべての被造物は創造主なる神のものであるから。

エジプトに富を蓄えさせたのは、神によって働くヨセフであり、それらは神の民のための豊かさであった。この時のファラオの好意は、そのことをわきまえてのことであろう。

 

そこで、イスラエルの息子たちはそのようにした。ヨセフは、ファラオの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧も与えた。
彼ら一人ひとりに晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五着を与えた。(21~22)

 

ベニヤミンが愛されるのは彼の働きや性格の良さなどに拠らず、ただ誰から生まれたかに拠るのである。ヨセフがそうであったように、ベニヤミンは備えられた愛を拒まないからである。

生まれながらの人は、信仰によってキリストと共に死んで、キリストから生まれて新しい人とされ、キリストのゆえに神の愛護の元にある。それは働きに拠ることではなく、キリストによって生まれたことに拠るのだ。

 

キリスト者が故もない恵みを受けたり、聖霊の解き明かしによって新しいことを教えられている時、また、癒やしの祈りが即座にきかれたとき、感動と感謝の中で主を喜び、すべての必要を備えられる神のご真実を経験する。

 

そのとき「私はそれを受けるに相応しいか」などと、自分を省みて判断することなどしない。それは神の判断の上に自分の判断を置くことだからである。
神が置かれる場所なら、王でも囚人でも「喜んで!」であり、尊敬も軽蔑もそのままに受ける。「アーメン」と御前にひざまずく時、魂にはとても甘い時である。

 

父に贈ったものは、エジプトの最良のものを積んだろば十頭と、穀物とパンと父の道中の食糧を積んだ雌ろば十頭であった。
こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「道中、言い争いをしないでください。」(23~24)

 

せっかく完全な和解を得ても、再び互いの間で罪の軽重を問いあうなら罪科の虜になってしまう。罪科からの解放の喜びも、和解の祝福も、あっという間に持ち去られるのだ。

キリストのあがないを受けて罪から解放されても、何時でもその吐いたものに戻ることはできる。
日々赦しのみことばを反芻して、キリストを喜びほめたたえ、御救いに身をもたせて続けて生きることは、神が進まれる方向に自ずと導かれてご計画の完成に至るのだ。

 

そのような平和や喜びは世には無いものなので、人は渇きを覚えてキリストに来るようになる。それは人の働きではなく、神の恵みから発するすべての人への備えである。

 

彼らは父に告げた。「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」父は茫然としていた。彼らのことばが信じられなかったからである。
彼らは、ヨセフが話したことを残らず彼に話して聞かせた。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。
イスラエルは言った。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」(26~28)

 

耳で聞いても信じられないことが、目で見たときに実感となる。
救われた者に誰の目にも神の祝福が見えるように、ご真実な神が備えてくださらないことがあろうか。
ヤコブにはヨセフが生きていたように、キリスト者のうちにはキリストが生きておられる。その方は全地の主なのである。


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