小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。(9)
殉教者が「たましい」とあり、居場所が「祭壇の下」とあることに疑問を感じた。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)
昔、牧師さんに死後の体のことを話したとき「死後は魂ですよ」と一蹴され、驚いて黙ってしまったことがあった。使徒信条で「われは・・体のよみがえり永久のいのちを信ず」と唱えていたからである。
天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、(Ⅰコリント15:40)
なので、霊のからだが肉体のままとは思っていないけれど、人の魂は聖霊の宮である体の中に存在する。それゆえ体の無いたましいは居場所がなく彼らは祭壇の下で、すべてが完了して霊のからだが与えられるまで待機していたのだ。
彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(10)
殉教者は、からだがあがなわれていないゆえに、神の計画を早めてくれと叫んでいたのである。
ヨハネの目の前で白い衣が与えられたということは、それを纏うからだが与えられたのであり、彼らに対するあがないは完全となった。
それゆえ、安息して神のご計画の完了を待ち、その時には全身で神をほめたたえることが出来るのだ。
救われた者のからだは、永遠に神を喜ぶために神と共に在るけれど、救われていないからだは、ゲヘナで永遠に焼かれるためのものとなり、それは殉教者の復讐となる。
すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。(11)
殉教者は、人の救いのための神のご計画を持っており、その人数は初めから決まっていて誰一人無駄に殺されない。全員がそろった時一人ひとりが名を呼ばれ「よくやった。よい忠実なしもべだ」との神の誉め言葉を聞くだろう。
義人の死はキリストの十字架と同じように、神の良きご計画を完成させるものである。