石ころ

人を恐れる(民数記13章)

 

主はモーセに告げられた。
「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」
モーセは、主の命により、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエルの子らのかしらであった。(1~3)

 

主はカナンの偵察を命じられた。当然、神はその地のすべてをご存じである。主が導かれた地で、イスラエルの民が安住するための必須事項は、彼らの信仰であり、神への信頼である。偵察されているのは彼らの信仰であった。

 

モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。「向こうに上って行ってネゲブに入り、山地に行き、・・・(17)
彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一房ついた枝を切り取り、二人で棒で担いだ。また、ざくろやいちじくの木からも切り取った。(23)

 

その地は神の備えられた豊かな祝福を現わしていた。彼らは、その地に成るぶどうの一房を二人で担いだ。彼らはモーセの言いつけ通りにその地を調べた。

 

四十日の終わりに、彼らはその地の偵察から戻った。
彼らは、パランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところにやって来て、二人と全会衆に報告をし、その地の果物を見せた。

彼らはモーセに語った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。(25~27)

 

主が選ばれた地の肥沃さを現わすぶどうを見た民は、神をほめたたえて歓喜するはずであるが・・。

 

ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。(28)

 

その地の大きな城壁と、強そうな先住の民族を数え上げる報告を聞いたとき、その地の豊かさは恐怖となり、先住民の姿を聞いただけで心は萎えて敗北している。

 

恐怖の原因はその地が神の選びの地であり、約束された地であることと、生きて働かれる神の存在がすっぽりと抜け落ちていたからである。
イスラエルの民自身が天地創造の神を恐れることを、まだ悟っていなかったからである。

 

主は「恐れるな」と言われる。真に神を恐れるときは人を恐れない。それは主の働かれた勝利の経験によってみことばに信頼し、主に安息するからである。

 

世で恐れに支配されて退くのは、主に信頼し従順した経験を持たないからである。一方的な御わざを受けていても、信仰を成長させる益とならないのは、信頼関係が成立していないからである。

みことばに信頼する主との関係は、甘いミルクのようであり、それは成長するための原動力である。

 

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」(30)

 

カレブは、カナンの地の豊かさを真っ直ぐに見ていた。神の導きの経験を通して、その地の豊かさに主の祝福を見たのだ。


彼の目が城壁や巨人ではなく、天地創造の神を見ていたからである。約束の主に信頼するとき、立ちはだかる城壁にも、巨人にも、勝利される主の御わざを見るのである。

 

しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」
彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。


私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」(31~33)

 

確かに彼らはバッタである。自分をバッタと言う時バッタになる。神の民であることを忘れ、見た目だけでアナク人をあがめた瞬間に彼らは敗北している。

 

世にはサタンの備えが溢れている。社会には惑わす組織や仕組みもあり、信仰を切り売りするような安易な手段も備えられている。何時でもそれらに身を寄せることが出来るが、其処にはいのちなるキリストはおられない。

 

主に従う時は大きなことであろうと、些細なことであろうと戦いがある。信仰は一つひとつ自分の肉の思いと戦って、みことばを選んで勝利する日々の経験にある。

 

それは最初に口に出す言葉によって一瞬に決まる。心にあるものが口を突いて出るからである。私の口癖は「イエスが居るから大丈夫」。この言葉を経験させてくださっているイエス・キリスト。

十字架の愛と、救われた日から今日に至るまでの主の忍耐によって、みことばを生きるための必要を備え、憐みによって主を知らせてくださった。

 

しかし・・やがてみことばを分かち合おうとしても、見られることも、聞かれることも無い時が来る。
みことばの飢饉は、山のようにご馳走があっても、食欲が持ち去られる日である。今、かろうじて恵みの日。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事