イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。(ルカ10:21)
この幼子は、ただキリストにすべての望みを託す者。世では権力も地位も無く、ほめられることもなく、人に顧みられることもない普通の人たちであった。
あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」(ルカ10:24)
今も聖霊は幼子のような者を選び、みことばを教え導きキリストを解き明かしてくださるのは、ただ主の一方的な恵みによる、キリストの御わざである。
責められても言い訳も出来ず口籠っていた者が、主に拾い上げられてキリストの義の衣を着せられ、罪も失敗も覆われて福音を語り出すのである。
しかし、今も自分の愚かさには成すすべもなく、ただ、唯一の望みをキリストに置く者である。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(Ⅰコリント1~19~20)
主はこの世の取るに足りない者に御目を止められ、十字架の血潮に洗いきよめて、聖霊の導きによって神の知恵与えられる。眠る霊を目覚めさせて、彼らに神の永遠の備えを見せられた。
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(Ⅰコリント1:27)
愚かな者が、神に拠り頼みみことばに信頼して、聖霊の導きに拠って生きるようになる時、彼らはキリストのうちに生きる。キリストを宿して生きる。完全な守りの中で終わりの無いいのちを生きるようになる。
しかし、愚か者が主を「知った」と思った時に、眠っていた肉が目を覚まして幅を利かせるようになる。悟ったと思った時に、主の選びに拠る備えから離れてしまう・・。そう、主の憐みと恵みから出て、報酬を要求するようになって行く。
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。(伝1:18)
愚かであっても、賢くても、人は聖霊と一つの霊のうちになければ、サタンの罠に嵌ってしまう者である。
誰も自力で主に留まっていることなど出来ない。だから日々聖霊の導きにより、みことばと異言の祈りの中で、キリストに在る平安をたまわるのである。
あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。(詩篇19:13)