石ころ

耳にしたとき実現する言葉 (ルカ4章)




 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:15~19)

 素晴らしい祝福と解放のみことばを、主の霊に満ちた救い主、イエスから直接聞くことができるとはなんと素晴らしい恵みであろう。
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:21)

聞いたその時、今まさに救いはその人の「アーメン」によって実現するのである。
読み上げられたイエス様の、権威ある豊かな霊の現れを人々は認めほめたたえた。
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4:22)

しかしイエスをほめる口から、「ヨセフの子ではないか」というつぶやきが起こる。「知って居る」という賢さ、頑固さが聖霊の働きを否定するのだ。
聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。(マルコ3:29)

あえて聖霊を否定する不信仰の中で主が御わざが行われないのは、そこでは何を見ても理屈を言うだけだからである。御わざは御父の御名が崇められるために成されるものであり、ご自身が神の子であることを証明するためになさるのではない。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(Ⅰコリント12:3)

総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ4:29~30)


イエス様を喜んだ人々も、イエス様のことばが彼らのプライドを逆なでした時殺そうとした。
しかし、主は殺されるのではなく、御父の時にご自分から十字架の死に向かわれるのであり、誰もイエス様を殺すことはできない。時が来るまで主はいつも真昼に真ん中を歩かれた。

  人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。(ルカ4:32~35)


悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。(ルカ4:41)

イエス様は、悪霊にご自身を証することはお許しにはならなかった。
神の御子イエス様を証することが赦され、賛美も礼拝も、御父と御子の交わりも、それは私たち神の子とされた者の特権である。それはとても誇らしい光栄なことである。

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(ルカ4:42~43)


イエス様を世に引き留めることは誰にも出来ないけれど、今イエス様のみことばに留まることは、誰にでも赦されており、「アーメン」と言う者を約束の祝福をもって主は待って居てくださる。

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