その病気は、もう手の施しようもないと言われとりあえずの処置を受けたおばあさんは、いよいよ元気に年を越し、相変わらず食事を作ってはお友達に運んで、とっても楽しそうに気楽なひとり暮らしを続けている。
このことは、どれほどにか私にとっても感謝な事である。
私も体調が決して良い日ばかりではなく、毎日キネクトを楽しんでいるけれど、自分の内をのぞき込めば認めたくもない弱さがゴロゴロしているのだから・・。
それらを無視していたけれど、ついに先日はお風呂にも入らずに(こんなことは年に一回もない)、何もかも放り出して寝床に潜り込んだ。今朝も4時半に目覚ましが鳴ったのを止めて、そのまま眠り込んでいった。
常から「起きてこなくても自分で食べて出て行くからいいよ。」って息子が言っていたのを頼りにして・・。
ゆっくりと眠ったあとは、身体がすっきりと軽く柔らかくなった。「疲れていたのか・・。」ってやっと気付いた。なんとまあ鈍い私である。
祈祷会も休んで、聖書を開くと自然と霊の賛美と祈りが溢れてきた。そういえば霊にゆっくりと自分を解放することは久しぶりであった。
霊においては、知性の関与がない分人の頑張りなんか効かなくて、すべて聖霊に信頼するゆとりを必要とする。信仰にゆとりのない時には、自分自身を委ねることが出来ないので賛美も祈りも不自由になる。
自分で何を祈っているのか何を喜んでいるのかわからないのに、主に向かって大きな声を出すのだから、聖霊に完全に信頼して、委ねなければあり得ないことである。
その朝は、それがとっても気持ちよくて、とってもさわやかに歌っていた。それが私であって私ではないような不思議な感覚だけれど・・。
人は霊、魂、体から出来ているのだなぁ・・って、そうしてそれは当たり前だけれど、やはり一つであることを改めて体験したみたい。すべてが主に依って守られているという確信が必要がだって・・。
おばあさんの病んだ体は、主によって覆われているのだろう。主は本当に御真実であって、私がクリスチャンである事を知っていて「祈ってね」と言った彼女の言葉は、イエスさまへの叫びとして届いたのだろう・・。
あの時の「早く家に帰ることが出来て、もう少し日常が楽しむことができますように・・」という祈りをそのままに、いや、それ以上に聞き届けていてくださった。
あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。
・・・
あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。(イザヤ57:10~11)
主は、人の強さをほめているのではない。強情さを指摘されているのである。弱いことを責められることはない。主は私たちに弱さを備えてくださった。
主が悲しまれるのは、私たちの強さによって主を求めないことなのだ。
いつでも柔らかな霊によって、みことばによって触れられなば、即座に御前に落ちる花嫁でありたい。
「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。」(イザヤ54:5)
幸せだなぁ・・このお方によって守られていることは・・・私が強くある必要なんかないんだ。
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ムベ
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