石ころ

使徒の働き⑮ (1 コリント1章)

 

 

 

パウロは自分の博識によっては、神のキリストを知ることはないと誰よりも知っている。知識によってイエスの弟子を迫害したことは、神の御前に重罪なのだ。

 

しかし、彼は初めから神の選びに在り彼によって、福音が異邦人に宣べ伝えられることは神のご計画であった。まことに神のなさることは奇しく、いたる所に逆転がある。

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(18~20)

 

この言葉はパウロの経験である。彼がその賢さを葬られた時、すべての必要をキリストから満たされるようになり、彼自身の及びもつかない大きなことを、聖霊に導かれ成し遂げたのである。パウロの働きは、地上の誰よりも偉大なのだ。

 

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(21)

 

神は博識なパウロを召されたが、その賢い言葉には拠らず、愚かな十字架のことばを真っ直ぐに語る者とされた。

 

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:8)

 

神がパウロに忍耐されたのは、罪を通って悟ることがあるからであり、彼が聖霊の大きな力と共に働くために、「罪人のかしら」と自称する、心からの謙りを備えられた。

 

しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(24~25)

 

パウロの強さのすべてを葬って弱くされたのは、神の力によって強められるためである。幾多の苦難と死のふちを歩む時、命を保証する神の力を経験し続けて、うちなるキリストに安息するためである。

 

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(27~29)

 

新生したパウロは、強さや賢さの中に自分を入れず、弱さと愚かさと無に等しい者の中に自分を置いて、すべての良きものは神の力によることを伝える。
それが自分から出たものなら自分を誇るが、キリストから出た良きものによってキリストを誇る。

彼は自分で経験したことを語るので、その言葉には力があるのだ。彼の存在が言葉を証明するからである。

 

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(30~31)

 

そう、キリストのうちに在るゆえに、キリストの義を持ち、キリストの知恵を持ち、キリストの力を持っている。キリストの豊かさにあってキリストの愛を持っている。
そうして、世に生きてキリストを誇るのである。


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