ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(9~10)
導きの確信を得るまではむしろ動かない方が良い。神はご計画を持っておられる。一足ごとの導きに拠らなければ、私たちにはその道筋を見つけられない。
主のご計画はすでに成就しており、聖霊に教えられて進むうちに、私たちがそれを世に現わして行くのだ。
私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。(16~17)
事実を言っているからと神から出たこととは限らない。その言葉を発している霊を見分けることが大切である。ほめられても、そしられても、神から出たものでなければ否むものである。
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。(18~19)
世はサタンの住み家ゆえに、宣教の働きにはあらゆる罠や妨害がある。牢に押し込めるにしても、今や、見栄えの良く居心地の良い牢もあり、そこからの脱出は容易ではない。なぜなら、牢であることにさえ気づかないからである。
群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。(22~24)
役人は捕らえる理由も罪も問うこともなく、大勢をなだめるためのムチを打った。役人が守っているものが正義ではないからである。
苦難の牢には主が共に居られる。パウロたちが真っ直ぐにみこころを行っているからである。
主は彼らの苦痛を覆って癒し、命を守って事を行わせ、それらの辱めを誇りとして、後に主に捧げた日々として数えさせてくださる。
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。(25)
主の癒しが賛美となる。主の守りが甘美な経験をもたらせる。彼らの賛美が聖霊による心からの喜びであったから、聞く者の耳を開かせて、キリストの甘さを分け与えるのである。
ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。(26)
看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。(29)
責任を取って自害しようとした看守は、自害を止めたパウロたちにひれ伏した。それは、主の御わざににひれ伏すことである。
それによって、彼に語られた言葉はすぐに彼の家族に成就した。
「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」女の言葉は事実である。
パウロの言葉は聖書となって主を知ることを今に導く。それは彼が神のしもべとして、神から出た言葉を語っていたからである。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
人がパウロを迫害するのは、彼が神のしもべとして選ばれたことに対する反抗である。それが神から出たことであり、自分たちの善悪から出ていないからである。
しかし、御霊は神の子どもを証してくださる。その時、謙ってひれ伏す者は救われる。
そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(30~31)
「救われるためには、何をしなければならなりませんか」それは肉の働きでは得られず、神は霊であるから、霊のうちに成就することである。
生まれつきの肉の行いに在っては死に、死んでいた霊の誕生によって救われるのである。
そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。(32~33)
救われるのは時間の問題ではなく、主の時は瞬間であることがわかる。眠っていた霊の目が開かれた時、はっきりと神のキリストを知り、みことばが生ける言葉であることを悟るからである。
それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。(34)
パウロの言葉は、即座に家族の救いとして実現したのだ。網を上げる時を逃してはならない。
しかし、彼らの救いには、愛するひとり子をたまわる神の痛みと、キリストの無実の恥と十字架の血潮、パウロの無実の恥とムチが支払われていた。
それは、私たちの救いにも支払われた代価である。