キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(9~10)
キリストに在って、キリスト者の救いは完成してくださってある。成すべき事はみことばに信頼して安息し、その良きたまわりものの中に、喜びと深い感謝を持って居続けることである。これは私たちの真の捧げものである。
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。(11~12)
救いのすべては神からのたまわりものである。救いに人の努力は何の役にも立たない。自分の罪を自分で処理することは誰にできず、ただ、神の御計画による、キリストの御わざのみである。
キリストを信じる信仰も、初めに神が選んでくださったたまものであり、努力をしてキリストを信じた結果ではない。
聖霊の助けによって、キリストを告白する者としてくださったのである。だから、クリスチャンであることを誇る権利は持っていない。感謝があるのみである。キリストと共によみがえらされたのは、一方的な神の愛のゆえなのだ。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(13~14)
キリスト者のすべての罪は、キリストと共に死んで新しく生まれさせ、すべて「してくださった」ことである。言われるままに、イエスさまの前に汚れた足を差し出して洗って頂いたのである。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
十字架は、イエスさまのうちに罪ある身をまるごと置いて、死と復活をたまわったのである。2000年の時を遡って・・、神が初めから選んで成してくださったわざである。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(15)
もう、キリスト者を訴える罪は処理されてある。キリストに罪からの勝利をたまわっているのである。罪はもうキリスト者を訴えることも、支配することもできない。
騙されてはならない。処理されてある罪に訴えられ、悔い改めをくりかえすことは不信仰なのであり、そんなものはきよめに対して何の役にも立たないのである。ただ聖いお方に身を避けることによってのみ聖いからである。