さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネ9:1~3)
盲人に生まれついた彼には神のご計画があった。神のわざを証して、みことばの真実を伝えることである。それゆえ、イエスさまが彼に来てくださったのだ。
イエスが来てくださったすべてのキリスト者には、それぞれに神のご計画があり、キリストと共に働く使命を負っているのだ。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:30)
聖霊の助けによってそれは重荷ではなく、生きる喜びをもたらせるものである。この盲人の目が見えた時、彼は生きる力と賢さを得て、永遠のいのちをたまわったように・・。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。(ヨハネ9:4~7)
彼がイエスに信頼して、見えない目で歩いてシロアムの池に行き目を洗わなかったら、この記事に在るイエスさまのみことばを知ることはなく、今も望みを託して癒される人々がいなかったのである。実は、私もこの個所から、イエスさまの労りと望みを受けた一人であった。
彼はイエスのうわさは聞いていたかも知れないが、それまでにキリストを経験したことは無かった。
目に泥を塗られて、人に教えを乞いつつシロアムに向かう道筋は、嘲りも中傷聞えただろう。みことばに信頼する熱心がなければ辿り着けないことである。
「なぜ」と一言でも疑いを挟むなら、すべて無かったことにして何時までも人を頼りの乞食だったろう。イエスの祝福のことばを聞いていて心に触れられていても、聞き従がわないない信仰とはこのようなものである。
神のご計画は成就せず、ただ何もしないだけで、イエスさまのあがないの血潮を無駄に流すことになる。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。(ヤコブ1:22~24)
言い訳によって自分を欺くことはできるが、たまわったみことばを直ちに行使しないなら、時々刻々とその記憶が持ち去られ、キリストから離れて行くことになる。失われた時は二度と戻っては来ず、何もできない夜が来るのだ。
今みことばに聴き、霊の目の開かれることを求めて、恥をかきつつ主が示されるシロアムに向かおう。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。(ヨハネ9:4)