石ころ

愛による掟 ③(レビ記20章)

 

 あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民の掟に従って歩んではならない。彼らがこれらすべてのことを行ったので、わたしは彼らを甚だしく嫌った。(23)

 

世に生きる人々と共に汗を流して働き、共に泣いたり笑ったり、折々に共感しつつ助け合う中で、昔も今も地に足をつけて生きる者であることはキリスト者も同じであるけれど、

 

ある日、キリストに出会って御救いを受け、生まれ変わったとき、世とは違った価値観に生きるようになる。
キリストの御足跡を歩むという方向転換は、偶像に関わることをしなくなり、死者を拝むことをしなくなり、軋轢を生むこともあるが、このことは世への大切なメッセージとなる。

 

もし人を恐れて世に調子を合わせ続けるなら、神の子としての祝福を受けて行く中で、溢れる恵みの出所をどのように証しすることが出来るだろう。

 

一時的な関係の悪化を恐れず、みことばに導かれるままに生き続けるとき、主の祝福による執り成しによって、偽りのない誠実な関係を築いてくださる。この関係は、時が良くても悪くても、その真ん中に主が居てくださるので、触れ合う人々に福音が流れて行くようになるのだ。
人の救いは神の選びによって始まり、聖霊が働かれることによるから・・。

 

 わたしはあなたがたに言った。「あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地をあなたがたに与えて所有させる。わたしは、あなたがたを諸民族の中から選り分けた、あなたがたの神、主である。」(24)

 

キリストの十字架の血潮に罪を洗われた者は、信仰によって聖なる者とされてあり、すでに世のものではない。日々みことばの約束に拠って生きており、滅び行く世の者ではなく天に国籍を持つ神の家族なのである。

 

キリストが住まいを天に備えてくださってある者は、再び迎えに来てくださる日をひたすら待ち望んでいる者でもあり、神が共に居ますところこそ、尽きることなく乳と蜜の流れる地なのである。

 

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)

 

誰をどういう理由で選ばれたのか、それは神だけがご存じであり、みこころのままである。
ただ、誰でもキリストの十字架による御救いを受け入れて、創造主なる神を礼拝する者は初めに神に選ばれていたのである。

 

神は愛するひとり子の血潮を支払って、その価値に見合うほどに多くの人々を選び任命しておられることであろう。
その人々が御許に来る導きとして、世界のベストセラーである聖書、福音を備えてハラハラと待っておられる。救いの日には締め切りがあるからである。

 

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。(マタイ24:14)

 

 あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また汚れた鳥ときよい鳥をより分けなければならない。わたしがあなたがたのために、汚れているとして区別した動物や鳥や地面を這うすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。(25)

 

世に生きるキリスト者は聖霊によってみことばを導かれ、生きて働くみことばを経験し、みことばに照らした聖なる感覚が研ぎ澄まされて行く。
聖霊は一瞬で神の嫌われるものを嫌い、神の愛されるものを愛するために直覚を養ってくださる。
聖霊によってみことばと主を慕い求める日々の中で、永遠に価値あるものを見分けて留まるのである。

 

 あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである。(26)

 

救いは神の愛と憐みから始まったことゆえに、ただ、みことばの約束に留まることによって完成するのである。それは、キリストの御わざに拠る救いであり、人の成すべきことは救いのみことばに安息することである。
キリストの救いは、信仰者のうちに聖霊を住まわせて完了したのだ。

 

神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(Ⅰヨハネ3:9)

 

 男でも女でも、彼らの間に霊媒や口寄せがいるなら、必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。(27)

 

占い師の真似をしてはならない。神から発した預言は必ずその言葉の通りになる。そうでないときは、自分の口から出た言葉の責任を命をもって負うことになる。

そのような導きは、一人ひとりにうちにおられる聖霊のものであり、神との人の関係に割って入ることは恐ろしいことである。

 

あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(Ⅰヨハネ2:27)


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