石ころ

賢い娘のように (マタイ25章)



そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。(マタイ25:1~3)


油は人が支配できるものではなく、自分の分を主から賜る聖霊である。それは絶えず主に在って満たされていなければならない。
救いの希望であるともし火は持っていても、油が尽きては信仰は曖昧なものになり、消えかけたともし火ではみことばも見えなくなってしまう。

愚かな娘も賢い娘も眠ることは同じであっても、聖霊に満たされているなら、起きていても眠っていても、霊は絶えることなく主を待ち望みつつ時を見張っている。
だから安心してぐっすり眠ることも、生活することもできるのだ。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(黙示録3:18)

今は恵みの時、備えのための日である。ゴールが何処か分からない走り方をしないために、残されている日に充分な備えをする時である。
愚かな娘も灯火を持っていたが、花婿である主を迎える日に油を切らせては、望みのないものとなってしまう。

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイ25:10~13)


霊の目を何時も覚ましているために出来ることは、主を知ろうとするすべてである。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)

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コメント一覧

ムベ
ピースオレンジさんコメントありがとうございます
此処に出てくる10人の娘は皆ともしびを持っていたので、キリスト者を現していると思います。
油と例えられた聖霊によって、救いのみことばを受け入れて救われはしたのですが、信仰の成長は絶え間ない聖霊の働きに拠ることです。

聖霊の満ちて活発に働いていてくださる状態と、息も絶え絶えという状態があるのだと、此処の箇所から知りました。
だから、買いなさいといわれたのですが、買うとは時間と労力を費やして得るお金を必要とします。

救いは信仰によって無料で与えられますが、信仰の維持には救いの価値を正しく知って、相応しく主を求め続けることは当然であると思います。

一度の信仰の告白によって天国行きの切符を手に入れたら、救い主にへの関心も感謝や感動も愛もほとんど育たないまま、具体的にはみことばを置き去りにして、組織によって守られて自動的に天国行き・・、聖書の中にはそのようには書かれていないと思います。
それはあまりに、父なる神様に、イエスさまに、内に居てくださる聖霊に対して失礼で申し訳ないことだと思うのです。
ピースオレンジ
ありがとうございます。
http://blog.goo.ne.jp/peaceorange

いつもありがとうございます。
この場をお借りして、
慈しみ深いお言葉で勉強させていただいています。

愚かな娘さんは、
みことばを受け入れる準備が出来ていなかったのでしょうね。
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