石ころ

内と外にある戦い(黙示録2章)

 

ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。(12~13)

 

アンテパスの殉教によっても信仰を失わない教会が評価されている。教会は一つのからだであり、その恐れと悲しみがどれほどのものであっただろう・・、しかし、サタンの王座という敵の前でこそ、彼らの信仰の真価が現わされたのだ。

 

しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。
それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。(14~15)

 

キリスト者を養うものはみことばである。他の教えを頼りとすることは偶像礼拝であり、キリストの花嫁であるキリスト者には姦淫である。

 

キリストのいのちによって買い取られて、永遠に至るいのちの約束をたまわり、世に在る日々をも守ってくださる約束に留まらず、キリスト以外により頼む行為は、そのものに自分自身を委ねたのである。

 

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。(16)


 
教会は運命共同体である。それはキリストの体の一つの器官であり、その組織に入り込んだパン種はからだ全体を汚すのである。
戦う敵は外にあるばかりではなく、自分たちのうちにもあり、それを見逃さないことが必要である。

 

それは今の教会では、両刃の剣であるみことばに照らして、切り分けることができる。また、聖霊による違和感に対して敏感であることである。
教会の一致がみことばに基づくものであり、みことばから右にも左にも反れないことが唯一の守りである。
問題が見過ごされて堕ちて行く時は、目先の問題が語られても、聖霊の導きによることばが語られなくなっている時である。

 

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。(17)

 

隠れたマナはレーマであろう。それは、キリストから一人ひとりに語られるみことば。人に伝えるものではない親密なことばであり、それぞれの働きのために備えられる保証としてのことばである。
苦難の中にも握って離すことはなく、どのような扱いを受けようとも持ち去られることのない平安である。

 

白い石とは、主が一人ひとりに持っておられるご計画に基づいて、その名を呼んでくださる愛称のようなものかもしれない・・(これは個人的な想像)
本当はたまわった時に知ることであり、少しは想像を楽しむことがあるけれど、今はまだお楽しみの中にある。しかし、明日には知るかもしれない。

 

聖書には後でわかることばが多くあるけれど、ひねくり回さずに解かれる時の楽しみとすればよいと思う。ちょうどよい時に主が明らかにしてくださる。遅くなることはない。
信仰とはすべてを知ることではなく信頼することだから・・。


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