結婚してからイエスさまを信じるようになった私は、主人に洗礼を受けたいと話した。私は仕事もしておらず、献金の了解も得たかったからである。
主人はそれらを許してくれたけれど、一つ釘を刺された。「俺を折伏しようと思うな」であった。
私はすぐに「わかった。」と言った。もともとそんな器用さも、賢さも、優しい行いによって救うなんてことも出来ないと思ったからである。
しかし信仰生活の中で、それまでは当然心を合わせてやってきた事が出来なくなることもあり、互いに苦しむことが増えて行った。信仰の初めの聖書には、
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)
に太い線を引いて「家庭に信仰を招く幸い」というメモがあった。
目の前には幸いというよりも、問題の方が多かったと思うけれど、家族の救いは此処に約束されているから、一緒に喜ぶ日が来ると信じたのだと思う。
信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。(Ⅰコリント7:14)
このみことばによって確信と平安を頂いてからは、家族の信仰という重荷から解かれて行った。そんな中で、何時の間か主人と「イエスさまが・・」と話していることがあり、一緒に祈るようになっていた。
主は色々と不思議な助けを与え、時を備えて家庭の中に御自身を現してくださっていたからである。
長男が、自分で朝起きて初めての礼拝にやって来た1987年8月9日。
次男は1990年5月20日洗礼も受けて、聖書を何度も繰り返し読み続けている。「イエスさまを信じていなかったら今は無い。」と話した。
2001年12月16日、主人が始めて教会に入って来た日。
それは、そっとイエスさまに「誕生日のプレゼントは要りませんから・・」と祈り求めていたことだった。
それからずっと通ったということではないけれど、彼らがイエスさまに一歩踏み出した記念日である。
主人は2014年1月に洗礼を申し込み、教会に通って学び7月13日に洗礼を受けて、同年10月7日の朝早く、「もう、ええ。もう、ええ。ありがとう、ありがとう」を繰り返して、永遠に生きる霊はイエスさまのパラダイスに移された。
私は約束通りに折伏はしなかった。いや、イエスさまと主人の間に立ち入って邪魔することはしなかった・・と思う。