神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(Ⅱコリント1:4~5)
人は世に在っては苦難がある。自業自得の苦しみもあり、人の罪による苦難もある。また、神の裁きかと思える苦しみもあるが、すべてのことは初めから主がご存じのことである。
神はすべてのことを、忍耐をもって主を礼拝する祝福に導いていてくださる。主を礼拝する礼拝に至った時、神のご計画は完成しすべてが益となる。
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(Ⅱコリント1:9)
神のすべて約束は御子のあがないによって、信じる者に成就する。そのあがないをみことばのままに信じ受け取り安息することは、神の栄光となり、それは十字架の血潮を無駄に受けないことなのである。
神の約束はことごとく、この方(イエス・キリスト)において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(Ⅱコリント1:20~22)
御救いを受けた者は、自分に押された聖霊の焼き印を知っており、人に責められて居る時も許されている時も、みことばの約束に留まり続けている。
永遠の赦しを受けた時、その霊は十字架のキリストの内に居たからである。そうして、今すべての時を望みにあふれて神と共に生きている。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)