石ころ

「わたしの証人」(黙示録11章)

 

それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」(1~2)

 

主はご自分のものとそうではないものとを明確に区別され、ご自分のものは管理される。主のうちに管理されている故に、平安にみこころを行うことができるのである。
不信仰者が捨て置かれることこそ裁きである。人には、それらのどちらでもないという立場はない。

 

しかし、主はいかなる時にも、へりくだる者に救いの御手をのべていてくださる。御子を人の罪のために贖いの代価とされたほどに、愛していてくださるからである。
たとえ裁きの渦中であっても、生きている間に悔い改めるなら、憐みによって脱出の道は天に開かれている。

 

「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。(3~4)

 「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」(ゼカリヤ4:11.14)

 

ふたりは油注がれた者であり、主に「わたしの証人」と呼ばれ、取り繕いのない荒布を着けて、さばきのことばを告げるために主の権威が備えられている。

 

彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。(5)

 

神のことばを語る者は神が守られる。生きるも死ぬも神のご計画が成ることであり、誰もそれを妨げるものはない。殉教は冠を戴く時である。彼らから神の火のさばきを聞いた者は滅ぼされた。

 

この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。(6~7)

 

すべてのことには時がある。目の前の出来事で神を理解することは早計であり、神のご計画はキリストの十字架の死によって完了している。
キリスト者もまた死に勝利している者であり、これこそ、どのように巨大な神に逆らう勢力も、キリスト者を滅ぼすことは出来ないのである。

 

彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。(8)

 

キリストの十字架を映す死はとてつもない名誉であり、人の目にどのようであろうとも、これ以上の光栄はないのである。

 

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。(Ⅰコリント15:54)

 

もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。(9~10)

 

人がその死を喜ぼうが、嘲ろうが、嗤おうが、それによって神に在る者の権威は変わることは無い。彼らの目にどのように映ろうとも、それによって彼らの値が欠片も変わることは無い。キリストもすべての殉教者もそうであった。

 

キリスト者は人の評価によって生きるものではないから、死を飾り立て人の誉め言葉をかき集める必要はないのだ。彼らを証されるのは神である。

 

しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。(11~12)

 

すべてのキリスト者の死は、天に住まいを移され新しいいのちをたまわる時である。彼らは彼らを貶めた人々の目の前で、神が「わたしの証人」であることを証された。
キリスト者は、自分で神のこどもであることを証する必要はない。それは神が備してくださることだからである。

 

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

 

そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
 第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。(13~14)

 

死は誰にでも何時でもすぐ側にある。人はどんなに賢くても、鍛え上げた強さをもっていても、今この次に起こる事を知らないのである。大切なことは今その日のために、与えられている時間を用いることである。永遠への備えのための時間を失わないことである。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事