主はモーセにこう告げられた。
「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。
これらが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入り口の、あなたのところに集まる。(1~3)
角笛ではなく、主に示されて作った銀のラッパ、それはみこころを伝え、イスラエルが従い行くためのラッパである。それは使い回しではなく、主に従って銀から打ち出されたものであり、彼らはその音を聞き分けて、旅路が守られるのである。
集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く大きく吹き鳴らしてはならない。
祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の掟である。(7~8)
主の導きを伝えるのは祭司の従順に在る。彼らは命じられたことばを間違いなく聴いて、正確に伝えなければならない。今に至るまで、みことばを聴く祭司の務めは変わらない。
また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。(9)
約束の地に入った時、敵と戦うための備えである。この定めがあるということは、旅の初めに、すでに約束の地の日々が、備えられているということである。神が始められたことは、神がそれを成し遂げさせてくださる。従順の中に在って。
また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、自分たちの全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすなら、あなたがたは自分たちの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」(10)
主が嬉しくて祝い喜ぶ祭りの日に、ラッパを吹きならすとき、主は交わりの中にいてくださる。主は戒めの中に喜びの日を置いていてくださる。
二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。
それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。
彼らは、モーセを通して示された主の命により初めて旅立った。(11~13)
イスラエルの民族が、主に導かれて祝福の地に向かって歩み出した。それは軍団ごとの後に続く老若男女、こどもや家畜も共に進む賑やかな出発であろう。彼らを覆う雲の柱は、癒やしや守りの神の眼差しのようである。その旅路は
この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。(申8:4)
今私たちの信仰生活も従順の中で導かれて行くとき、擦り切れない主の守りが頭上に輝いているだろう。肉の目には見えないけれど、主はその経験させてくださっている。
さて、モーセは、彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主が与えると言われた場所へ旅立つところです。私たちと一緒に行きましょう。私たちはあなたを幸せにします。主がイスラエルに良いことを約束しておられるからです。」
彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の国に、私の親族のもとに帰ります。」
するとモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。というのは、あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じで、私たちにとっては目なのですから。(29~31)
この言葉はみことばではない。モーセの人間的な信頼による言葉である。主から出たことばと、人間の言葉は区別するべきである。それが人間的には正しいことであろうと・・。
私たちと一緒に行ってくだされば、主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」(32)
主は確かに祝福してくださるが、それは主の口から出た約束が事実となるのだ。みことばを取り次ぐモーセは、混同することのないように、注意深くなければならないと思う。
モーセが主にのみ信頼することを恐れて、舅の知識を頼む保険をかけたのなら、それは汚れだと思う。主とモーセだけが知っていることだけれど・・。
こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。(33)
彼らの休息は、主が臨在される旅の真ん中にある。主が居られる所が休息の場である。主を離れては何処も安らぐ所はない。
みことばの中に安らぐのがキリスト者であり、主の戒めの中で憩うのがキリスト者である。世には彼らの安息の場は無いのだ。
彼らが宿営から出発する際、昼間は主の雲が彼らの上にあった。
契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」(34)
戦う前に敵は逃げ去ることを願ったモーセの祈り。それは大切な契約の箱を神が守ってくださるようにという願いであった。
主が守ってくださるものは神の契約である。信仰によってキリストにたまわった永遠のいのちの祝福を、奪うものは何も無い。
またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」(35)
創造主なる神を礼拝する者は今や幾千幾万、いや空の星、海辺の砂のように増えた。彼らはみな主の民、神の子らである。
主は、すべてのご自分の子どもたちを導いておられる。その一人ひとりの髪の毛の数までご存じの中で・・。日々主を愛して、みことばに聞き耳を立て、従い行く者たちを見つめておられる。
聖霊によらなければ人の心は常に定まらず、あらゆる世の状況に絡め取られて、神の愛の経験は薄れて行き、体や感情の経験によって不確かなものとなり、やがて忘れてしまうのである。そこでは火の柱や雲の柱に代わって、目に見える世の栄光や権威、明日のための保身が先立つからである。
従順は、キリストの十字架によって赦された経験から、聖霊によって神の愛を悟り、神の愛を味わった者に現れる、神からのたまものである。