石ころ

「父よ」(ルカ11章)




主のいのりは、神さまとの関係を求めてイエスさまに教えて頂いたもの。
天地創造の全能の主に、日々「父よ」と声に出して話しかける。これこそすごい特権であり、主のいのりによって自分がどの様な者なのかを知るのである。

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:2~4)


世の終わりにはみことばの飢饉が来ると書かれている。食物の飢饉なら永遠の御国という避け所がある。しかしみことばの飢饉は避け所が持ち去られることである。
「今は恵みの時、今は救いの日」なのだ。みことばはキリスト者にとっては、肉の糧にまさって「毎日」求め続けるものである。

 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。(ルカ11:5~6)

非常識でも迷惑でも、求め続けよとイエスさまは教えておられる。それは信仰の友に与えるために、どうしても手に入れなければならないものである。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:10)

熱心に求め続けるなら「誰であっても」与えられるとあるが、此処で求めているものは「聖霊」である。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13)

天の御父と親しい交わりを持っているから求め続ける事ができる。良き方であることを経験しおり、御父だから熱心に願うことができるのである。また聖霊にも心を許して聴き従うことができる。
みことばは聖霊によって時を得ることができ、すべてのものを見分けることもできるのだ。

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