主はモーセに告げられた。
「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を設営しなければならない。(1)
いよいよ幕屋のすべてが揃った時、モーセは主の命じられた日に、主のおことばの通りにすべてを設置して行った。
主が定められた日は聖なる日であり、永遠をご存じの主に聞き従うことは祝福の保証となる。人は明日を知らない者だからである。
あなたは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものの油注ぎを行い、それと、そのすべての用具を聖別する。それは聖なるものとなる。(9)
モーセに幕屋をきよめるように命じられた。神のことばに拠ってモーセの働きが神の働きとなり、きよめられたものは完全なものとなる。それは、神の口から発せられた言葉の権威によることである。
「アロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせる。
また彼の子らを近づかせ、これに長服を着せる。
彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」
モーセは、すべて主が彼に命じられたとおりに行い、そのようにした。(14~16)
主は祭司の働きにアロンの子らを選ばれた。それはイスラエルの将来の備えであった。モーセは主の言われた通りに油注ぎをして、アロンの子らは聖別された者となった。
モーセは神のことばによって聖別する者となり、アロンとアロンの子らは神の選びに拠って神に仕える者となった。すべてがみこころのままにある故にすべてが聖いものとなった。それに人が口を挟むことは汚すことである。
短い40章に「主がモーセに命じられたとおり」という言葉が7回も出て来る。彼は幕屋の設営の一つひとつを、初めから終わりまで主に聞き従い忠実に行った。それが神がモーセを選ばれた根拠である。
幕屋の材料や設えにもみことばの通りであることが聖さであり、幕屋の設置も主が選ばれたモーセが、みことばの通りに行うことによって聖く、それが「神によって成る」ということである。
また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。
そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(33~35)
幕屋の完全度は、モーセでさえも近づくことができないほどの臨在によって分かる。主の臨在を見るところは、みこころが忠実になされた所である。神から出たことばが神への従順によって成り、その時人は神の栄光を見るのである。
モーセがすべて従順のうちに働きを終えたとき、幕屋は生ける神の臨在で満ちた。神と一体になった働きが終った時、彼は神の栄光を見たのである。モーセはどれほどに感動したことであろう。この時モーセは、執り成しに労苦したすべての報いをあふれるばかりに受けたことであろう。
イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。
旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。(36~38)
イスラエルの民は、神に聴き従うことの大きな恵みを経験したのだ。神は彼らの従順の中に臨在してくださったのである。
主が備えられた材料を用いたこと、与えられた知恵による職人の献身、主が用意してくださった良きものを喜びをもって捧げ続けたことが、その従順のうちにあって聖とされ、幕屋が主の臨在のうちに完成されて、彼らの旅を導かれる主を経験しているのである。