石ころ

心の中でキリストを主としなさい(Ⅰペテロ3章)

 

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。(13)

イエスは子どものころ神と人に愛された。彼の良い行いに対して害を加える者はいなかった。

 

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。(14)

 

しかし、キリストとして義のことばを語り神のわざを成したとき、責める者たちが付き纏うようになった。
人が神の義のために働こうとするときも、責めや脅しが付き纏うようになる。それは人の口からであったり、自分の心も責めるものにつき纏われるようになる。
人は不完全なので突っ込み所は幾らでもある。したことを責め、しなかったことで責められる。

 

神の義のための働きは、キリストの十字架の赦しの中で、キリストの権威によって働くことであり、罪科に対してはキリストがすでに負ってくださり完了している。

その人を罰することができるのは主のみであり、生かすも殺すも主にあることで、義のわざはキリストに生かされてのことである。訴えられ責められておびえることは、主を主としていない証拠となる。

 

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(15)

 

私たちの弁明はキリストを語ることである。キリストの十字架の血潮に洗われて、聖とされた喜びと感謝の日々を、みことばと行いによって語るのである。キリストにあって生きる日々がそのまま弁明の備えである。

 

ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(16)

 

柔和はうちにおられるキリストであり、健全な良心もキリストの聖さにある。神を恐れることはキリストの御父への従順であり、すべてはキリスト者のうちにおられるキリストから現れるものであるなら、より頼む日々によってすべてが備えられている。

 

キリストを知った人は、自分の無知を恥じるようになって救われてゆく。それは、キリスト者の弁明を通して働くキリストの力によることである。

この世の無知は絶えず責めあい訴えあって、そこには平安がない。平安はキリストの中にのみあり、その平安に出会ったとき人は驚いてキリストにひれ伏すのである。

 

神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(17)

 

神の義に生きようとしてたまわる苦しみは、神のみこころに拠ることであり、神に責められているのではない。未完成の私たちには惑わされることであるが、それはキリストとの関係にある平安によって確信することである。

 

キリスト者の善は聖霊に導かれての行いであり、行っている者はその初めから終わりまでを知ってはいない。ただ、その日聴いた言葉を行うことは不安が伴うものである。
事実その行ないは目に見える部分によって責められたり、嘲られたりすることがある。そこで安息することができるのはキリストとの信頼関係である。

 

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(18)

 

唯一罪の無い人間であるイエスが、すべての人の過去、現在、未来の罪を負って十字架刑に処せられ、そこで神の御前に罪のあがないは完了した。
キリストの十字架の死と葬りと復活を信じた者は、キリストの死と共に自分の肉の欲を葬り、聖霊によって永遠のいのちを生きるのである。

 

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。
かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。(19~20)

 

ノアは神に命じられたままに、人々を救うための箱舟を造っている間、ずっと人々の嘲りと罵りを聞いていただろう。彼の確信は聴いた神のことばにのみあったのだ。
彼は人々の嘲笑に耐えて箱舟を完成し、人類が絶えることから救って神の計画を完成したのである。

 

キリストは黄泉にまで下り、それらの人々にノアの信仰を証して彼の名誉を回復してくださったのである。
神は責められ嘲られている者の名誉を回復してくださるから、自分で戦ったり苛立ったりする必要はなく、聴いたみことばを確信を持って真っ直ぐに行うのである。

 

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。(ローマ12:19)

 

キリスト者の罪のきよめと義、滅びることのないいのちはまったくの頂きものであり、罪を洗ってくださった十字架の血は、神の愛する御子の犠牲によるものである。

 

キリスト者はすべてをただで受けた者であり、自分の正しさによって誰かを裁く権利もなく、責める資格もない。ただキリストに故無く愛されてたように愛し、仕えられたように仕えるより他ないのである。

 

この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。(21~22)

 

ノアを生かし、ノアが伝えた神のことばを侮って滅んだ者が通った水は、十字架で死んでよみがえられたキリストを聖霊によって信じ、キリストのことばに在って生きることを現している。

それはキリストが神に従順されたことであり、そのキリストを信じる者も素直な良心によって、神の備えてくださった御救いに従順することである。

 

キリストは今も生きておられ、神は彼をすべての権威の上におかれた。
キリストを愛して喜びの中で従順する者にも、天に住まいを設けてくださり、神が創造の始めに造られたように、同じ姿をたまわっていつまでも生きるのである。神をほめたたえる終わりのない賛美の中で・・。


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