石ころ

サマリヤの女の兄弟愛(Ⅰヨハネ3章)

 

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(16)


日本で殉教というとき、キリスト信仰のためにいのちを捧げたキリシタンを思う。
現在の環境にあって、信仰の兄弟のためにいのちを捨てるということを思いめぐらせていたとき、サマリヤの女の自分自身を捨てた伝道に思いが導かれた。


サマリヤの女はイエスさまから真理の言葉を聴いて、メシアの訪れを知ったとき、彼女の人生はがらっと変わった。
人目を避けてそっと水を汲みに来ていたのに、目的であった命の水瓶を放り出して町に入って行き、自分の悪評を材料に用いて町中にイエスを触れ回った。


女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(28~29)


彼女の宣教はメシアに出会った喜びの故であった。その喜びを分かち合いたくて我を忘れて走り回り、彼女は多くの信仰の兄弟を救った。


そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(30.39)


福音を聴いた喜びはあまりにすばらしくて、一人で抱えるには手にあまり、自分が何者であるかなど忘れて誰にでも、片っ端から教えたくなるものなのだ。
自分の良いこと悪いことさえも材料にして、すべてを用いてキリストを伝えるのは、それほどに彼女には嬉しいニュースだったからである。その彼女の喜びが人々を引き寄せるのだ。


そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(40~42)


キリストを伝えた時、その人たちが直接イエスさまから聴くようになることは最大の目的である。
今もキリストを紹介したとき、その人が聖霊の導きによって自分で聖書から生けるキリストに出会うなら、伝えた者は完全な仕事をしたことになるのだ。


「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」この言葉によって、彼女は役割を全うした。彼女は「よくやった。良い忠実なしもべだ」という、おほめの言葉を聞いて安息するのだろう。

イエスさまが彼女を選んで話されたわけが此処にある。救われたのは彼女と多くのサマリヤの人たちであった。


それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。(19)


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