神の摂理をわきまえないことをヨブはわびて、「なぜ」という問いを治め服従した。人は神の摂理を悟る事はできないので、陶器師の計画のままにすべてを委ねる器である。
私たちはイエスさまの十字架を通して、神の愛を知っているので、罪の重荷から解かれた感謝をもって、喜んで服従することが出来る。また、日々の歩みの中で神の助けを経験して、良い方を味わい続けてもいる。
たとえ日々が厳しくても、御国に向かって歩いているのであり、決して滅びることのない死、永遠のいのち、イエスさまが準備してくださった天の住まいが待っている。
イエスさまは究極の理不尽を経験してくださった。その痛みも悔しさも知っていてくださるから、世の理不尽に打ちのめされることはない。御子をたまわるほどに神さまが味方でいてくださるから・・。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:15~16)
信仰に入った頃、このみことばを何度も何度も口ずさんで安息した。赦しの平安と、祝福の平安、主の臨在による交わりの平安である。
赦されざる者が一方的に赦され、故なく祝福をたまわり、聖霊のお交わりが絶えないという・・、それは、理由がなければ安息できないことだった。
その理由は、神の主権によることであると知った時、すべてに服従することが出来た。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8:3~4)
「肉に従って歩まず」とは、一切を自分の善悪の基準に拠らず、神の摂理に服従することである。此処で、始めてあらゆる責めから解かれ、神の祝福を受けることができるのである。
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