石ころ

キリスト依存症(2023.02.18)

 

近頃は心を騒がせる事々や、思い煩うような出来事が矢継ぎ早にあって、息つく暇さえないけれど、それらの出来事の中で必要な知恵や、思い煩いからの避け所は何時でもイエスさま。うちにいてくださるキリストに依存することで正気?を保っている。

 

次々と目の前に現れる問題一つひとつに、主は導きによる助けを経験していて行き詰ったことはなかった。
問題が多ければ主の助けも多く経験する。キリストにより頼む者の困難や、ドキドキも主を経験するための材料に過ぎず、その弱さによって主を求めさせ、神が味方であることの経験を重ねさせてくださる。

 

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(ローマ8:35~36)

 

屠られるために差し出した魂によって生かされるなら、死の棘はキリストの命によって抜かれてあると告白するチャンス。世では死以上の問題は起こらない。

 

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:37~39)

 

今、みことばから主を経験することが出来ることは、なんという恵みであろう。そのとき私たちは御国を味わっており、リアルにお出会いした時の感動を思い描いているのである。

 

マリヤが、イエスが狂ったという噂を聞いて心配をして迎えに来たことがあった。パウロも狂っていると言われたことがある。
霊である神のことは霊にしか理解できないのだから、みことばによる行いや望みは聖霊に拠らないと判断できない。

 

今、世で見聞きしていることは惑わしである。敵は日々にコロコロと姿かたちを取り換えて、目まぐるしく混迷の火矢を放ち続ける時であり、主に聴く暇を与えぬほどに、激しく残された時を持ち去っている。

 

キリスト者は携挙された時、主を近しく知ることができるだろう。しかし今、世に生きるこのからだを持って、主を経験出来るチャンスに働くことが出来るなら、それはなんという祝福であろう。

 

それはイスラエルの民がエジプト脱出の時に経験した主であり、モーセが語らった主とのお交わりのようである。その、すべてを成し遂げさせてくださるのは主のお憐みである。


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