さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちは父の羊の群れに水を飲ませに来て、水を汲み、水ぶねに満たしていた。
そのとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。するとモーセは立ち上がって、娘たちを助けてやり、羊の群れに水を飲ませた。(16~17)
モーセは荒野に逃げて、ミディアンの井戸の側に置かれたことから始まった出会いである。彼には、家族を守ってこの地で生きて行く力が備えられていた。
イサクの妻リベカは、彼女を迎えに来たしもべと井戸の側で出会った。ヤコブが妻ラケルに出会ったのも井戸の側であった。
神は彼らが荒野で生きるために、命の水を備えてくださった井戸のほとりに花嫁を用意しておられた。ご計画を成就する命を産み出すために・・。
父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうして、その人を置いてきてしまったのか。食事を差し上げたいので、その人を呼んで来なさい。」
モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。
彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。(20~22)
この時モーセが心で決めたことは、過去と決別してこの地で労働をして生きることであった。
それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。(23~25)
思い起こされたとあるが、神は彼らを忘れておられたのだろうか。神は永久まで変わることのない真実なお方である。御子をたまわるほどのご計画をもって愛する者を、忘れる瞬間があるだろうか。
神が一方的な恵みをもって結ばれた契約を、忘れたり、思い出したりするだろうか。
いや、神はその日のためにモーセを育てておられるではないか。此処に神の真意はある。ただ、すべてのことには時があり、その時には神と民の応答による関係が必要なのだ。
彼らの声を聞かれて神は契約の日が決められたのである。そう、契約の働きだす日を、彼らの叫びの中で決定されたのである。主を呼ぶイスラエルの子ら一人ひとりのために・・。
今後、世の混沌はいよいよ深まって行くだろう。神を知ることが困難になる終末に向かって、日々の労働のように主を告げ知らせつつ「主よ、来てください!」と、キリストの奴隷は主人を呼ばなければならない。
神はその叫びの中で、キリストの十字架によっていのちを買い取られた者を、天に迎える携挙の日を備えてくださるからである。