さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。
彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。
しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。(1~3)
「殺せ」という王の命令と、ナイル川の死の水を経てモーセは生かされた。水に浮かべられたモーセを救ったのは王の娘であった。
姉の機転によって子は母の乳で育てられ、やがて王の娘の子として宮殿で成長した。
すべては、神のご計画によることである。殺人者の娘の庇護を受けて、母の乳で育てられ、宮殿では指導者に必要な教養を身に付けた。
神はモーセを敵の手の中で成長させて、王が恐れていた通り、この地からイスラエルの民を脱出させるのである。
男の子を殺せと命じた王は、もっとも恐れるべき子を養い育てていたことに気付いていなかった。
どんなに賢い権力者も、自分の将来に対して何をしているのか、実は何もわかってはいない。人は誰も明日を知らず、ただ神だけが、すべての人の明日をご存じなのである。
こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。
彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。(11~12)
モーセはエジプト人による教育を受けて、エジプト人の息子として成長した。
神はこの日モーセのアイデンティティを目覚めさせられた。彼は神に選ばれしレビ人の息子であり、エジプトの宮殿に治まっているような者ではない。
次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。
彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。(13~14)
神はモーセの正義を砕かれた。モーセが神に用いられるために必要なのは、彼の善悪の判断には拠らぬ、永遠に変わることのない神の義なのである。
人類の善悪は時代によって移り変わり、個々の事情によって違い、力づくでどのようにでも変えられて来た。善悪知識の木の実を食べた人類には、永遠に変わることのない神の義、神の基準がわからないことで、神が理解できないのである。
それゆえ、神はアダムに「その実をとって食べると必ず死ぬ」と言われたのだ。創造主なる神がわからなくなったことで、たまわったいのちを失って死ぬのである。
神のキリストの愛が分からない時に、人は生まれても生まれても、永遠に滅びる死から逃れられないのである。神がご自分のかたちに造られたアダムには死は無かったが・・。
神は霊なので、人は聖霊によって導かれ、義なる神のみことばに従順を訓練され、ご威光にふれてひれ伏す時、どれほどに価なく愛されているかを悟る。
それは、開かれた霊の目が神の善悪の基準を、キリストの十字架による赦しに見るからである。
ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。(15)
この日からモーセは、エジプト人による養いから取り去られ、神の備えの中に導かれて、神を知るための訓練を受けて行く。
居心地の良い宮殿から、一転して何も無い荒野にひとり置かれたモーセ。王の娘の子という立場から、殺人者として追われる身となったことは、人の目には最悪と映つるが、イスラエルの民を神の計画に導くモーセの第一歩なのである。