彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。(4~5)
パウロは反キリストが現れる日のことを「よく話しておいた」。
今、そのように不信者にとって、最も困難な日のことが語り伝えられているだろうか。私はそのことを教会の外で聞いた。しかし、その滅びの知識こそは伝道の原動力なのだ。
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。(6~8)
教会に在る聖霊の働きによって、まだその時が止められ、神の定められた時に教会は携挙されて、主の日が来るとある。携挙とキリストの再臨については、キリスト者にとって重大な知識である。
主に身を避ける守りが、みことばへの無関心に拠ることはあり得ない。それは、みことばなる方との関係が、冷えていることを現しているからである。
世の終わりが近くなった今は、到る所にいのちの水が湧き出る井戸が掘られてあり、そこからいのちの水を汲み出して飲むことができる。
その味わいは自分で確かめて選びとる必要があるけれど、主は渇いて求める者に必要を備えてくださる。私たちには聖霊の導きがある。
主の日の前に「話しておいた」と言われて、「全く知らなかった」と答えることは、主に無関心であったという事になる。その言葉は聖書に記されているからである。
神に対する誠実はみことばへの渇きを起こす。聖霊は神を知りたいという渇きを起こし、みことばを知ることを導いて、信仰を成長させ、神の祝福を知らせて望みに満たしてくださる。そこに今日成すべきことが準備されているのだ。
わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6:6)