コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。
主はモーセとアロンに告げられた。
「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」(19~21)
主の栄光は全会衆に現れたが、この時コラたちも会衆も、神の臨在を見てひれ伏すことはなかった。彼らにはモーセしか見えず、如何に神を無視していたかがわかる。
しかしモーセの取り成しによって、神は会衆を生かされた。
地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を呑み込んだ。
彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。(32~33)
モーセによってかろうじて命を得た彼らであったが、なを責めることを止めなかった。
その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」(41)
神の超自然的な働きを見た民がしたことは、すべてをモーセの所為にして、彼に命の責任を負わせて怒りを燃やした。
彼らが盲目である限り、神のわざが目の前で行われても、決して神を恐れることを悟らない。それがモーセから出ていると言うとき、神の存在は無視されているのである。それは「神は居ない」と言うことと同じである。
何を見ても経験しても、人は主を無視することが出来る。自分の欲望が満たされない限り、理屈を言って、キリストの御わざをベルゼブルと言うことも出来るのである。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)
聖霊によって霊の目が開かれない限り、人が神を悟ることは無く、霊の目が開かれる時には、一つのみことばによっても主を知るようになるのである。神は霊であり霊によって悟ることなのである。
会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。
モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。(42~43)
神の栄光を見るのは霊の目に拠る。神のわざを悟るのも聖霊の導きによるのだ。モーセとアロンだけが、主の栄光を見て御前に来たのである。
主はモーセに告げられた。
「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。(44~45)
このときモーセは言葉も無くひれ伏したのである。
神はひとり子をたまわるほどに人を愛しておられる。交わりの中において助け、導こうとしておられる。しかし、神を知ろうとしない頑なさは、愛を怒りに変えた。
モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」(46)
神に宥めを行なわれたのは、今、神の右の座に在って、すべての人のために、十字架にかかってくださったキリストである。キリストを信じてなを悟りの無い者を、弁護して執り成していてくださるお方である。御父との深いお交わりの中で・・。
彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。
コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。
アロンが会見の天幕の入り口にいるモーセのところへ戻ったときに、主の罰は終わっていた。(48~50)
すべては、彼らがモーセに立ち向かって、神に逆らったことから始まったことである。主が立てられたモーセに逆らうのは、妬みという肉の暴走からであった。
そのとき彼らの心は罪に堅く閉ざされて、主が栄光を現されても悟ることができず、恐れることも無く、神の民でありながら無意味に死んだ。
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)
キリストのあがないによって、今私たちは神を礼拝することができる。日々、生かされてある命によって、主の御わざをすべてのことを通して経験し、御名をほめたたえ、永遠の望みを喜んでいるのである。
良い時も、悪いと思える時に在っても、みことばによる神の御約束に留まる時、神の栄光を見ている私たちの霊は喜んでいるのである。
永遠のいのちの喜びをもって、主の栄光を仰いで生きることができる。これ以上の奇跡が他にあろうか。