「キリスト教は宗教ではない」と教わったとき心から同意した。真理そのものだと思ったから・・。
しかし、後に宗教法人の手続きのためにとあれこれ忙しく準備されるのを見聞きした時、私は混乱してしまった。税など国の特別扱いのためだとは分かるが・・。
カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。(マタイ22:21)
イエスさまはすべての王である立場を主張なさらず税金を払われた。カイザルのものは世のもの、世のものは世に返せである。支払うべき金は魚の口からでも備えられることを聖書から学んでいる。
教会がキリストのものならみことばに拠り頼むであろう。みことばに拠らないことはイエスさまを無視することである。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)
教会はキリストの聖なる花嫁である。時の支配者に与えてはならない。擦り寄ってはならない。それは汚されるからである。
建物や組織や形式はサタンに狙われる。先の大戦の時も教会は引き回された。わざわざそんな所に首を突っ込むことが理解できなかった。
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:39)
キリストの花嫁として純粋な霊の交わりを壊すものは何も無い。その交わりの必要はどのような世の中にあっても主が守られる。
しかし世の手段によって建物や組織が残っても、キリストは居られないならそれは単なるセレモニーホールである。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7~8)
だから、主に求めなさいといわれる。世と戦って主にのみ必要を求め、共に主の約束のみことばにお委ねするのである。そうするなら、すべての必要は祝福の内に備えられ、主の御真実を共に経験することができる。そう!この時、共に主を経験するのである。
主が取り去られるならきよめのためであり、悔い改めはヨブの素晴らしい子供たちを生むのである。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)
主は、「主は取られ、より良きものを与え」とヨブに答えてくださった。彼が真に主の御名をほめたたえるために・・。拙い信仰をも育ててくださるのは主のご真実である。
キリスト教は単なる宗教の一つではない。
告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。(イザヤ45:21)
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