あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。
異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、(3~4)
キリストの十字架の血潮で罪を洗われて、真っ新な聖いいのちを頂いたとき、何よりもキリストが好きになる。
それは、「・・をしてはいけない」とか、「・・をしなければならない」などと、教育されてのものではなく、うちに来てくださったキリストの聖さへの欲求である。
ある時、突然生きる方向を変えた者に、世は驚いて責めたり忠告をしたり、時には断絶に至ることもある。
そのとき内なる聖霊に逆らって曖昧な言葉や態度をとるなら、それは世に対しても罪深いことである。彼らにキリストを紹介するチャンスを失って、サタンの罠に嵌ったのである。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)
断絶に至って何がキリストの証かと思うなら、そうではない。死に至るまでキリストに忠実なら、神はその生きた時間のすべてを通して、神に愛される幸いを世に現わしてくださるからである。それを見て行くうちに、彼らの生涯において生ける神を悟る望みがあるのだ。
彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。
このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(5~6)
春夏秋冬の恵みを通しても、宇宙の規則正しい仕組みを通しても、創造の神の存在が、素直であれば子どもでも悟ることができる。見ても聞いても信じないことは自ら選んだ結果となる。神は人にご自身を愛する自由と、愛さない自由も与えられた。
それゆえに、神を愛する者にはどれほどにか喜んでくださるのである。それは、天地創造の神の子としてくださるほどの喜びである。なぜそれほどに神は喜ばれるのか、それは
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言われたひとり子イエスを、十字架で人の罪を負わせて、身代わりに殺すほどの犠牲を支払われたからである。
愛する子への最も深い悲しみを経験してくださったのは神である。この神の愛を思う時、どんな理不尽も感謝の中に消えて行く。
理不尽をそのまま受けて御父に従順し愛してくださった御子と、御父に、私は愛されていることを知って安息している。一人ひとりに対する神の真実な御愛は永遠に変わらないからである。
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(7~8)
それほどに神が愛しておられる人であるから、愛された者は受けた愛によって愛するようになる。それは感情ではなく意志であり、神に愛されて生じた信仰によることである。
キリストは私たちの罪に、神の愛を着せて覆ってくださった。愛は代価を支払って罪を覆った。それは聖なることであり誤魔化しではない。
世の終わりが近くなると、脅しと惑わしと捻じ曲げられた言葉によって、愛がわからなくなりキリストを知ることが困難になる。
置かれている所で神が備えてくださったたまものに拠り、神の愛とさばきを知らせることこそは、うちなるキリストからたまわる愛である。
何をどのように語るかは、キリスト者は一つの御霊によって教え合い補いあっているのだ。
語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。(11)