石ころ

キリストを持たないゆえの飢え渇き②(ユダ)

 

愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。
彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」
この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。(17~19)

 

すべては、御霊を持たないことから発している。彼らはキリストのうちに新しく生まれておらず、古い人のままであって、キリストの真実を経験しておらず、求めて知ろうともしないのは、彼らにはそれが愚かなことなのだ。

それゆえ従順する者を嘲って、人の目に賢く映る生まれつきの術に生き、時間切れとなり滅びの時を迎えることになる。

 

しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(20~21)

 

それは最も聖い信仰そのもの、キリストのうちに在ることである。また、うちにいてくださるキリストに信頼して安息すること。
みことばによって今日の歩みを導かれて選び、どんな時も約束のことばに留まっていることである。

 

聖霊による祈りは、知性の祈りも異言の祈りもあり、言葉に表せない祈りもあり、賛美のうちにもあり、眠っているようでも祈っており、遊んでいても備えている祈りがある。すべてはみこころを求めてのことである。
「いつも祈っていなさい」

 

人に認められる日も、そしられる日も、神に愛されていることは霊と魂の深いところで何時もいつも味わっており、永遠のいのちに移される日を、人生最大のゴールとして誇り高く待っている。

 

疑いを抱く人々をあわれみ、
火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(22~23)

 

信仰と不信仰ははっきりと切り分けて、不信仰はその汚れを曖昧にせず忌み嫌い、なんとかしてキリストの信仰のうちに救い出すために、望みを持って純粋なみことばを、聖霊の導きによって語り続けるのである。

 

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。(24~25)


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