石ころ

園は「交わり」に完成した




しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)

御父と御子の交わりに置かれてあるとき、イエスの血は日々の交わりの中に流れてきよめ続けてくださる。
それは私たちの日常において、聖霊が絶えず思い出させてくださるみことばによる。だから豊かにみことばを蓄えることは必須である。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:3)

神にある私たちの義とはなにか。キリスト者の愛の在りかはどこか。
それは御父と御子の交わりであり、そこにある愛である。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。(Ⅰヨハネ2:28~29


私たちに愛はない。自分自身を愛することさえ不自由な者である。家族をどれほど愛おしんでいても、無条件にすべてを受け入れる者ではなく、条件によってコロコロと移り変わる感情の支配下にある。
まして、他人を愛する愛はあまりに貧しくて使い物にはならない。それのこと一番知って居られるのは神様である。

だから、戒めを守られない私たちを憐れみ、十字架という脱出口を与えてくださった。
ただ、信仰によって御父と御子のまじわりに来なさいと招いてくださった。そこには、すべての必要が備えられているからである。

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、(Ⅰヨハネ3:21)
このことは信仰によることである。罪のあがない主を信じる信仰に拠って、私たちはすでに権利を得ているのである。なを責めるものは、汚れた良心であり否定するべきものである。

また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。(Ⅰヨハネ3:22~24)


聖霊によらなければ、聖書の全文を暗記しても真理である方を知ることは絶対にない。みことばが人を養い、霊と魂と体のすべての必要を満たすいのちであることを知ることは無い。
だた時と共に朽ちて行く言葉の一つ、また、自分の知識をひけらかすための道具、自己主張を補強ための材料となり、それは殺す文字となる。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:7.10)


愛は主の中にある。主に内包されてそれを世に実現してくださるとき、私たちはどんなことでもできる愛の力を得るのである。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。(Ⅰヨハネ4:13~17)


自分を見て御父と御子の交わりを躊躇する時、それは偽りのわなである。自身を神の子と告白できないのは騙されているのである。聖霊の導きの中で聖書を調べ、知識を得ることで平安を得る。
信仰によって自分の居場所を明確に告白できないなら、サタンはそこを足台として住み続けるから危険である。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(Ⅰヨハネ3:1)

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:18~19)



 アダムとエバが持っていた神様との交わりと、今御父、御子の交わりに在る私たちとではどちらがより多く主を知って居るのだろう。
どちらがより多くの愛を味わったのだろう。
今私たちは、アダムさえ持っていなかった永遠の平和の中に置かれている。今私たちは朽ちないいのちを得ている。

造り主の愛の証拠である十字架を私たちは歴史に置いて見ている。罪の嵩だけ御子の血潮が流されたことを知っている。

ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。(ローマ5:15)

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事