石ころ

聖書は聖霊による書物(ⅡペテロⅠ章)

 

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。(16)


イエス・キリストと共に寝起きし、食事を共にし、溺れそうになった時には手で掴んで引き揚げられ、足を洗ってもらい、耳元でキリストのメッセージを聴き続けたペテロの言葉である。


キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。(17~18)


彼は、本来の天上にある栄光のキリストの姿を目撃して、神の御声を直接聞いたのである。その記憶は、殉教に至るまで彼を支え確信となった。しかし、


また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(19)


天上のキリストを目撃したことよりも、神の御声を聞いたことよりも、もっと確かな確信は聖書にあるのだ。
それは、キリスト者の携挙の日まで確認し続ける神のことばであり、あらゆる場合に導きを与える神の知恵と、罪の赦しと、永遠のいのちの約束が認められている神の契約書だからである。


それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(20~21)


聖書は、言葉の演出も感情の表現も極度に押さえられていて、ただ、淡々と事実が書かれている。
だから、十字架のイエスの痛みも苦しみも表現されず、十字架に愛するイエスを見ている女たちの感情も一切書かれていない。聖書に無いことには注意するべきであり、触れてはいけないのである。


蛇がエバを誘惑した方法は感情を刺激しただけであった。人は感情によって簡単に誘導されるが、聖書がそれをしないのは霊によって導くためであり、キリストを告白する聖霊によって信仰を導き、一時的な感情にはよらず、永遠の霊によって告白するためである。


だから聖書はどんな時代もあらゆる文化の中で、あらゆる状況に在る人々を、聖霊の働きによって一人ひとりに語りかけ、時に叶って導くことができるのである。
また、環境の変わり行く生涯において、日毎に新しく聴くことができるのである。


誰の色にも染まらない真っ白なみことばは、聖霊が導かれる光を放つ、すべてのキリスト者の道の光である。
みことばに、人の解釈の最たるものである感情を貼り付けることは、それが善意であろうがなろうが、ぞっとするほどの違和感を感じる。
人は一度感情的に焼き付けられた言葉を、白紙に戻すことが非常に困難であり、それは聖霊の導きの妨げとなるからである。


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